philosophy
出版の本質が、記録し、流通させ、人々の記憶を促すことにあるとすれば、デザインもまた同じだと言える。デザインは「問題発見、問題解決」のプロセスではあるが、その対象に常に第三者が存在することを踏まえると、これもまた「いかに認知され、記憶してもらうか」を追求する行為だと解釈できる。どちらも本質的には時間と共に薄れゆくものであり、だからこそ、忘却の彼方に消え失せること、人々の記憶から消えてしまうことを抗っているとも受け取れる。
これから自分が文章を書き、写真を撮り、本を作り、デザインを行うにあたって、そこの根本から立ち返って考える必要があった。
文明が発展し、技術が日々進化し、誰でも創作ができるようになった現代では、あらゆるメディアでコンテンツが氾濫し、ありとあらゆるものが人々の記憶にとどまろうと主張しあっている。それを人々は享受するものの、どこかしら疲弊しているようにも伺える。創作物が人々の記憶にとどまるだけでなく、そこで停留させ、消耗させてしまっている一因になってはいないか。
それでは創作やコンテンツ、メディアのあるべき姿は何だろうか?それは停滞するものではなく、流れを促すものなのだと考える。創作されたものを手に取った人が、「自分も何かを作りたい」と思えるもの、あるいは、これを読んだら次はあれを読んでみようと、次の行動を誘発させるものであるべきだ。そのようにして、創作の大きな流れが生まれ、文化が続いていくのではないか。
人生の時間は限られている。死ぬまでに作ることのできる作品の数も限られているし、享受できる作品の数も限られている。記憶できること、感情の振れ幅も限られている。だからこそ、記憶をすることと同じくらい、忘れることもまた重要であり、受け入れるべきなのだという考えに至った。
記憶されるという、出版とデザインの本来の目的を否定するわけではない。ただ、作り、記憶されるだけではなく、我々はその先の話をしなければいけない。記憶され、それを忘れることも同様に受け入れ、そして我々が作ったものを忘れた後に、別の文化に触れる、何かを作りたいと思う。その流れを作り出せるといい。
忘れるということは、自身の肉体を一度は通過している証でもあり、そして自身が変容している証でもある。変化し、通過し、停滞せずに流れができていく。忘却とは、その流れの象徴なのだろう。自分の創作行為や創作物は、流れを生み出す起点でありたいと思った。人や、感情や、記憶が、通過するための器にすぎないものでありたいと思った。
そんなことを考えている中、「備忘録」という言葉を思い出した。思い出してからというもの、頭からこの言葉が離れない。どこか不思議な言葉だ。いろんな感情や態度が入り混じっているように伺える。例えば、
・忘れることを受け入れる懐の広さ。
・「どうせ忘れるさ」とでも言うような開き直り、諦念。
・忘れることを前提として、それに備えるという用意周到さ。
これこそが、自分が創作に向かう姿勢と目指している理念を体現している言葉だと思った。記憶に留めるために記録をする。同様に、忘却することも受け入れ、両方が共存してあること。
そういった経緯で、屋号に「備忘録」という名前をつけた。時にはまじめに、時には気まぐれに、スタンスを変えながら、その時々の創作に向き合うことは、これまでも、これからも変わらない。その時、そこにしかないものを記録し、形にしたり、形を変えたり、やがて忘れ去られることで、創作や文化の大きな流れの一部となるものを作ろう。それはちょっと視点や思考を変えればすぐにできることなのかもしれない。あるいは、一生かけても果たされることはないとても難しいことかもしれない。ただ、自分が今まで受け手として心を動かされ、救われ、創作意欲をかきたてられた作品たちは、すべてその大きな流れのさなかにあった。これはそのような創作や文化の大きな流れへの恩返しでもあり、極個人的な野望でもある。