その町に着いたのは、土曜日の午前六時だった。一時間前からすでに目覚め、夜行バスの車窓からその町の手前の風景を眺めていた。山並みの風景と、その間から海原が少しずつ見え隠れしていた。これから降りる町が海に近いのを初めて知る。
バスから降りて、自分の身体が軋んでいることに驚く。電車の時刻を確認すると、まだ一時間近く後だった。することもないし、今から寝ても不機嫌になるだけなので、町を散策することにした。
バスターミナルを起点に、起きたての頭と身体で町を歩く。 町も起きたてのようで、のったりとした時間が流れている。人気はほとんどいない。散歩をするおばさん、部活へ向かう学生、郵便配達のバイクが通り過ぎる。影を長く落としている電柱を最初にスナップした。通行人は自分を気にせずに通り過ぎていく。朝は誰も自分を気に留めないから楽だ。誰も気に留めないような、町の細部を入念にスナップしていく。川に沿って歩いて行き、そこに立ち並ぶ建物と川に映る建物を一緒に撮った。しばらく歩いていくと、海に出た。いや、海じゃなかった、そこは湖だった。ぐっと目を凝らすと、対岸の別の町がぼんやりと見えた。そこは朝にふさわしい湖だった。町の人々がちらほらと湖の周りで活動していた。ランニングする女性、犬の散歩をする少年、自身の散歩をする老夫婦、そのどれもを通り過ぎた。湖のほとりに美術館があったので、そこを目指して歩いた。美術館の裏庭に、倒木がいくつも落ちていた。それの一つに腰掛けて、対岸の町を見つめた。
もやがかったように色褪せた対岸の町は、こちらの町よりも栄えているように見える。高層ビルがいくつも見えた。自分はきっとあの町には行くことは無いだろう。この町にも長居はしないのだから。
湖のほとりを歩く女性を見て、これから会う人のことを思い出す。その人はいつも私の話を聞いてくれた。楽しいことも、悲しいことも、暗いことも、全部受け止めてくれた。振り返ると、その時の私は取り繕っていたような気がする。その人に見合った自分になれるように。取り繕っていたから、なんでも話すことができた。けれど今は取り繕える自信がなかった。その人の向こうには私が見え隠れする。ちょっと強がっている私。
立ち上がって角を曲がり、大きな川沿いを歩くと、向こうに酒蔵のような外観の立派な建物が見えた。それに向かって進路を変えた。水で濡れた植木鉢、湯気が出ている開いた窓、道具が積みこまれている小舟。水面に揺れる建物。その上を動く太陽。
今やもう、私は自分を制御できないように思う。突然泣き出してしまうし、突然大声で叫び出してもしまいそう。私はいつ泣き出すだろうか。誰かに抱きしめてもらっても肩を撫でてもらっても一度泣き出したら、自分の力では止められないと思う。
私はこの町のことを全く知らないけれど、この町は私を受け止めてくれている。楽観でも悲観でもない、揺るぎない中立に留めてくれるようだった。あと数時間後には離れるけれど、これから来ることもないであろうこの町に感謝した。
時刻が七時を回りそうだったので、また道を歩き始めた。私は今にも崩れそうな気持ちで、浅く呼吸をしていた。よく知らないどうでもいい町の空気が、私の中を洗ってくれる。歩いているうちに、いつもの呼吸を取り戻していった。