novel

貸借勘定

回晩行

収録

2022/2/28

刊行

18

ページ

9877

  • 1st短編集-回晩行

  • 試し読み

 郡司は常に貸し借りをそのままにするのを嫌がった。ゼロにしなければ納得できないタチなのだ。誰かに貸しを作ったらすぐに何かを返した。逆に、誰かに借りを作ったらすぐに何か見返りを求めた。もちろん、それはさすがに図々しいと自覚のある郡司は、めったに自分から施しを与えないようにしていた。与えられたら与える。与えられるまで与えない。郡司はそのことを、仕事よりも睡眠よりも、食事よりも大切にしていた。

 例えばこんなふうに。天気の良い土曜日、せっかくなのでピクニックをと、郡司は弁当を作って家を出た。電車で十分ほどのところにある、大きな公園の原っぱの隅にシートを敷いて陣取り、弁当を開けた。

 ところが蓋を開けたらすぐさま、ケチャップを忘れたことに気づいた。郡司はホットドッグが好きだった。しかしケチャップがなければ何も始まらない。貸し借りの次に、郡司はホットドッグのこだわりにうるさかった。落胆の声を上げる郡司。

 それを見ていたのは、すぐそばのベンチにいた少年だった。少年が一人、弁当箱を抱えているのを郡司は目ざとく見つけた。パッと視線が合うと少年は委縮したが、郡司はすぐにそばに寄ってきた。

「きみ、ケチャップ持ってないかい」悲しきかな三十代の男が苦渋の表情で小学生に迫る仰々しい光景だったが、運よく少年はケチャップを持ってきていた。

「ハンバーグに使うつもりだったんですけど、まあ、少しだけなら……」きんちゃく袋からケチャップの個包装を一つ取り出した。少年に違和感を感じ、そのまま郡司は隣に座った。

「ありがとう……。きみはできた人間だな……。なにか、お礼をしたいのだが……」

「いえ、おかまいなく」ケチャップを手に入れるだけで郡司は機嫌が良くなった。

「きみ、一人でここにいるのかい」

「……」

「お兄さん、怪しい人じゃないから安心しておくれ」

「怪しくない人はそんなこと言わないよ」

「確かに」郡司は自分で納得した。少年はおかしくなって笑ってしまった。

「ごめんなさい、ちょっとからかっただけさ。一人で来たよ、ここは」

「友達はいないのか」と郡司が尋ねると、少年は表情をくもらせてしまった。近くの遊具で小さな子とその親が遊んでいた。郡司はホットドッグにケチャップをかけながらそんなのどかな公園の風景を眺めていた。

「何か嫌なことでもあったか。なんでも聞いてやるぞ、ケチャップの借りがあるからな」

 しかしケチャップに見合う『お返し』はどれほどのものだろうかと頭の中で目算してもいた。多く与えすぎると、相手も慮ってまた返してくることがある。その調整が大事だった。郡司は常に完全無欠のゼロを追求するのだ。

少年はうつむきながら、しばらくしてから、ちょっとずつ話し始めた。

「僕はいつも内気でうまく人と話せないから、友達はいないよ。いないから嫌なこともありやしないんだ。だから学校も平気なんだよ。だけど……来週、ヴァイオリンの発表会があるんだ。それが嫌なんだ」

「それが弁当を食べない理由か」

「え?」

「さっきから少しも箸をつけてないじゃないか。親に作ってもらったんだろ?ケチャップも全部俺が使っても文句も言わない。食べないなら俺がもらうぞ」

また少年の表情がくもった。

「母さんはいないよ。ちょっと前に死んじゃったんだ。弁当はおばあちゃんが作ってくれる。おばあちゃんも好きだよ。でもやっぱり、いつも発表会に来てくれる母さんはいない。おばあちゃんは足が悪くて遠くまで来れないんだ。発表会はいつも母さんが花束を持ってきてくれてた。がんばったねって、僕の演奏が終わると花束を持って待ってくれてるんだ。母さんがいなくなってから二回発表会をやったし、母さんはヴァイオリンが好きだから練習はちゃんとやってるけど、もう寂しくてそろそろやめようかって嫌になるんだ、ときどき」少年の話を聞いてから、ずいぶんと贅沢な悩みを抱えた坊ちゃんだと、郡司はそのひねくれた精神で訝しんでいたが、そこにあるさびしさは本当のものだとも思った。その本当の気持ちを郡司は見過ごせない。

 「確かにそれはつらい。よくやってるな」手癖で無意識にタバコを取り出そうとしてから、子供のいる公園に自分がいることを思い出して止めた。

「ケチャップの『お返し』だ。来週は俺が花束を持っていこう。いつ、どこでやるんだ?」少年はサッと顔を輝かせて郡司の方を見たが、すぐにそらして表情を曇らせた。

「来週の土曜日の港区の音楽堂だけど……、そこまでしなくていいよ。お兄さんは知らない人だし、なんだかキマリわるくなっちゃうな。話を聞いてくれただけでもうれしいよ」それから黙って二人はそれぞれの弁当を食べ始めた。

砂場で遊ぶ、何も知らない子供たちを眺めた。郡司はその子たちと二人の間には壁があり、遠い世界で起こっている出来事を見ているような気分になった。

 途中、溜まったものが溢れたように少年が静かに涙を流し始め、郡司は背中を撫ぜてやった。少年は泣きながらも弁当を食べ続けた。子供の慰め方の知らない郡司は水筒に入れてきたコーヒーをすすめたが、苦手だったらしく、一口でむせてやんわりと突き返された。

dehaze