novel

おやすみ同盟/l’alliance de la bonnne nuit

旅のような庭

収録

刊行

8

ページ

3172

  • 3rd短編集-旅のような庭

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 食堂へ続く廊下を歩いていると、君の声が聞こえた。誰かと話しているようだった。寝ぼけた頭のまま、君が何を喋っているのか頭に入ってこないままで食堂に入ると、そこには君一人しかいなかった。君は窓際の席に座っていて、テーブルの上にも何も置かず、でも確かになにか話していたはずだ。まるで誰かに話しかけるような声だったから。今はひとつの話題が終わったように、口をつむいでいる。僕は入り口で立ち止まる。

 君が僕に気づいたのは、僕が食堂に入って数分した後だった。驚いたような表情で、こちらを見た。

「聞いてたの?」

「聞いてなかったよ」

「うそ」君は笑って言った。

「ほんとだよ」本当に本当なのに、と本心で思った。それから二人で何を話したかは覚えてない。どうでもいい会話をした気がする。君との会話は全てどうでもいい。君は君一人の時しか話さない言葉があることを知ったから。それが頭から離れない。

 話し終えると、いつものように二人で廊下を歩いて、それぞれの部屋に向かった。その時も何かを話していた。どうでもいいが大切な会話だった。けれど今はなにもかも思い出せない。ドアにたどり着くと君は手を振る。

「おやすみ」

「おやすみ」僕が返事をすると、君は部屋の中に消えていく。そこから先がどうなっているのかは知らない。

 君はその部屋の中で君と何を話しているの?

 僕は僕で、自分のベッドの上で、自分と何かを話そうと試したけれど、何ひとつ思いつかなかった。自分に言うことなど何もなかった。

 本当のことを言えば、本当に本当のことを言えば、言葉なんてどうでもよかった。誰が目の前にいたって、ずっと黙っていたい。何も言わずにいたい。誰にもなにも言わないまま、そのまま眠りについて、消えてしまいたかった。

 語るべきことなど、何ひとつないのだ。

 そこは少しおかしなアパートだった。住人は八人いたが全員揃っているところは見たことがなかった。みんな長期不在が多く、家主に申請すれば月単位で家賃を値引いてくれた。皆が大体何かしらの仕事や趣味や生業で、一年のほとんどを遠方の生活に費やしていた。僕は僕で、そこに戻るのは年に三回ほどで、合わせて二ヶ月ほどしか滞在していなかったと思う。なのでアパートにいる人も、時期によってさまざまだったが、久々に顔を合わせると親しみを込めて話し合った。側からみると、変な人ばかりが集まっていたと思うが、だからこその絆があるようにも思えた。

 君も住民の一人だった。君は僕よりも滞在期間がもっと少なかった。年に一度か二度しか帰っている形跡がなかった。偶然にも、僕と君は年に一度はアパートで会えた。申し合わせて帰っているわけではないのに君はいた。僕は君と食堂でよく話をした。二人とも旅をして、いくつもの地域や町を転々とする生活をしていたから、それぞれが赴いた土地について話した。あと一世代で潰れる村のこと。食事を一日に一回しかしない生活のある町のこと。男が女に立てられていることを知らずに威張っている街のこと。娯楽が図書館だけで、テレビもケータイも持たない街のこと。傷やあざ、身体的欠陥を持った者しか生まれてこない町のこと。それらの街のすべてに共通してある、海のこと。全部つながっている海のこと。

dehaze