一
初めて彼がその行為を目撃したのは九歳の頃で、通学路の傍にある、祖父のリンゴ畑でそれは行われていた。畑にいた祖父は樹の枝に腕を伸ばし、手で取ったものを腰につけていた小さなポーチに入れていた。虫でも取っているのかと思い、立ち止まってじっと目を凝らしてみた。すると、祖父が取っていたものは虫ではなくリンゴの蕾だということに気づき、さっと血の気が引いた。祖父は蕾の収穫をしていた。
熟していない実を間引いているのであればわかるが、しかし祖父は一本の木に咲いている蕾を一つも残らず収穫すると、次の木へと取り掛かっていった。祖父には、そこにあるすべての蕾を搾取しようという意志があった。
彼には蕾を摘み取ってしまう理由がわからなかった。戸惑っている間にも、祖父は黙々と収穫を進めた。蕾の側面を二本の指ではさみ、手際良くそれを捻って枝から分離させ、左手に持ち替えポーチの上で蕾を開放する。蕾が袋の底に落ちる時には、既に右手が次の蕾に取り掛かろうとしている。その作業を祖父はひたすら機械的にこなしていた。
彼は匂いとは異なるが似ている、畑に充満しているものに顔をしかめた。祖父が生み出しているそのあいまいなまどろみは、その空間だけうっすらと白濁しているのだろうかと錯覚するほど、小さなリンゴ畑が一人の人間によって飲まれている昼の盛りを過ぎかけた午後である。彼はだんだん華やかさが失われていくリンゴ畑を見るに耐えなくなり、小走りに立ち去ってしまった。
次の日には蕾という蕾は全て無くなっていた。祖父はそれきり農作業も行わなくなり、家にこもりきりになった。彼はなんだかとても怖かったので、祖父にも家族にも何があったのかと尋ねられなかった。それから畑の横の道を通らなくなった。
何もわからないままに、その時の祖父の行為と光景は彼の記憶に焼き付いた。
二
二度目に彼がその行為を目撃したのは、最初からだいぶ年月の経った二十九になった頃、彼の妻は病床に伏していた。彼には妻が、若さから老いへ進む方向とは違う、もっと遠い方向に流されているように思えた。彼は取り繕い、妻はいつもの生活を変えずに鉢植えの花々を育てることに傾倒しつづけた。
ベランダにはいくつもの鉢植えが並べられている。それを毎朝早くに水やりをし、葉っぱを触って様子を伺っている。だんだん身体が重くなっていっても日課は欠かさずに生活を送っている。それを行っている時、彼は妻の表層にただならぬ変容を感じる。老けているというわけでなく、本来の若さよりも年月を幾重にも重ねた表情がまとわれているのだ。若さと老いのちょうど中立の場所を見定めて、そこに自分を居直らせように、彼には妻がそう見えた。その間にも、妻は死に向かっていった。
そうこうしているある日、彼は再びその行為を目撃したのである。妻が植物の手入れを終えてベランダから部屋に入ってきた時、小さな籠をテーブルに置いた。彼は何気なく籠の中を見たが、理解できずに二度見してしまった。籠の中には色とりどりの蕾が入っていた。たくさんの種類の蕾の入っているその籠の中身はとても綺麗だった。しかしそれ以上に、異様な雰囲気が籠から溢れるほど満ちているように彼には思える。
「これ、どうしたの?」妻は彼の戸惑いを感じているようではあったが、
「あなたもすぐわかるようになるよ」その一言で会話は終わった。
彼はそれ以上追求することはなかった。というのも、幼い頃の、リンゴ畑での記憶がほとばしるように蘇っていたからだ。蕾の香りとも違う、その空間を緩やかに蹂躙するような、それの圧を皮膚で感じて、彼は何もすることができなかった。妻はソファに身を横たえて、休憩をした。彼女はいたって平静だった。