novel

物恋

回晩行

収録

刊行

16

ページ

8129

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     一

 東京は広く深い。気を抜いたら最後、自分の居場所すら、相手の居場所すらわからなくなるほどに飲まれてしまう。雨が降れば雫も飲まれ、まどろっこしい湿気は地下鉄へと続く下り階段へとなだれ込む。東京の地下は梅雨を醸造する。電車は通過するたびにそれをかき混ぜる。

 下り電車、ある車両には、下村の他には誰もいない。時刻は夜の十一時を過ぎ、普段であれば他にも帰宅する者がいる気配もあったが、その日は下村の他には誰もいなかった。彼は座席の端に腰掛け、向かい側の座席を見つめていた。そこには薄手のハンカチがあった。紺の地に緑線の横模様、赤線の縦模様が施されている。意識はハンカチに乱されている。下村を見る者は誰もいない。ビニール傘の先は水が溜まり、揺られながらあらぬ方向へ伸びていった。アナウンスは駅の到着が近いことを伝える。下村はハンカチを無心で見つめる。やがて車両は失速し、失速し、満を持して停車する。音を立てて扉が開く。下村は立ち上がり、ハンカチを手に取り、傘をもう片方の手に電車を降りた。

 彼は改札のそばにいた駅員にハンカチを渡した。

「落としものです。車内にありました。さっき着いた電車の」

「おや、わざわざありがとうございます」駅員の礼に会釈を返してから下村は地上へと続く階段に向かった。日中から降り続いている雨は未だに止んでいなかった。

ビニール傘を開き、疲れた歩調で帰宅した。

     二

 次の日の下り車両、下村は何もない通路を挟んでメガネのケースと向き合っていた。車両にはまたしても誰もいなかった。下村は無心でケースを見つめる。駅に着き扉が開くと、ケースを取って車両を降りた。

 昨日と同じ駅員がホームの端にいた。彼は笑顔で応じた。

「ご協力ありがとうございます」

「いえ、お構いなく」地上への階段を昇ると雨は止んでいた。

街は雨に洗われたように静かだった。手持ち無沙汰になった傘で地面を突きながら、彼は街灯を頼りに進んでいった。

 突然彼は呼び止められた。

「おい……そこの小僧……その傘を売ってくれよ……」

声の主は濡れたアスファルトに尻をついている老人だった。老人は体中の毛という毛を無作法に灰色く伸ばし、ジャージのような衣服はくたびれ異臭を放っていた。下村は不審に思いながらも応じた。

「はァ……この傘をですか?あいにく、これしか傘を持ってないんです。すみません」

「そんなこと言わずにさ……ほら、雨もふってないんだろ?その傘は用済みだろうの。俺にくれてやってもいいじゃないか……。新しい、良いやつを代わりに買えばいいのさ……。売ってくれって言うてるんだ……。別にタダでくれってんじゃないぜ……これでどうだ……え?」

老人はジャージに手を突っ込み、しばらく奥まで手を伸ばして探してから、くしゃくしゃによれた紙幣をひっぱり出した。現れたのは五千円札が一枚。

下村の警戒心が俄然強まった。

「急いでいるので、失礼します。これは渡せないです」そのまま振り返らずに、足早に老人の元を去った。老人は後ろから罵声をつぶやき続けていた。

     三

 次の日にはキーホルダーが車両の片隅に転がっているのを見つけた。クマのキーホルダーだった。下村はそれを手に取り、駅に着くといつもの駅員に渡した。

「あなたのおかげで助かっています」と言われたが、下村は答えに困った。

「持ち主が見つかったんですか?」

「いえ、残念ながら誰もいらっしゃらないです。しかし、拾われたものは喜んでいますよ。そのままだったら流れ流れて汚れていくだけですから。あなたの親切心が何かを救っているんですよ」

「まあ、単に拾って届けているだけですがね」

「それだけでも十分立派です。もしかすると、何かをもっているのかもしれませんね」

「持っているって何をですか?」

「落としたものに出会う運というか……好かれているんですよ。何日も連続で落としものを届けてくれる人なんて見たことがありませんよ」

確かにそれもそうなのかもしれない、と下村は思った。彼は落としものを見つける機会が、人並みより多い自覚があった。

届けることも下村にとっての普通だった。そんなことを帰り道で歩きながら考えていると、また昨日と同じ老人に呼び止められた。

 「今日はあの傘はないのか……ないのなら仕方がない……その時計はどうだ……それなら昨日の十倍、いや、それ以上出すね……」下村は再び立ち止まった。老人は全く同じ場所にいた。

「なんでそれほどまで欲しがるんですか?ビニール傘なんて五百円もあれば買えるでしょう。この腕時計だって買おうと思えばいつでも買える。だってあなた、お金は持ってるんでしょう?」そう言うと老人は舌を鳴らして否定した。

「小僧にはわからないだろうさ……俺は傘が欲しいんじゃなくてな、お前の、傘を、その時計を売ってくれと言ってるんだ……わからんだろうな……いや……はたして……いつかわかるかもしれんな……お前は……」老人は気味の悪い笑顔を浮かべた。

「もう話しかけないでくれよ」下村はそう吐き捨ててから帰った。

     四

 次の日の下村はいつもと様子が違った。大事にしていた万年筆を失くしたのだ。午前中にはポケットにないことに気づき、焦った。祖父からもらった高価なものだったのである。昼休みに行った店に尋ね、オフィスの中も探し、心当たりのある場所を手当たり次第に調べたが、どこにもなかった。しかたなくあきらめ、仕事も身に入らなかったので、いつもより早めに退勤した。

 人が溢れている車両に座れる席があるはずもなく、いつもの定位置のすぐ近くに立ち、窓の外を眺めることにした。窓の外には川が流れ、暗く街灯が立ち並ぶ、広くもの悲しい光景があった。河原の茂みにいくつものブルーシートで作られた家が見えた。窓が濡れ、雨が降り始めたことを知る。いきなり河川敷は見えなくなり、車両はトンネルに入った。窓は電車内を反射して写した。ひどく暗い顔をしている下村と、詰め込まれている人々。その中の一人の胸ポケットに、万年筆が差し込まれているのを下村は気づいた。万年筆にはイニシャルが刻まれていた。

「H.S」下村のイニシャルだった。下村の落とした万年筆と全く同じ種類だった。見れば見るほど、それは間違いなく下村が落とした万年筆だった。さっとその男に顔を向け、肩をつかんだ。

「すみません、その万年筆を見せてもらえませんか」振り向いた男は、下村とそれほど年の離れていない、知性を感じさせる顔立ちの、銀の縁のメガネをかけた男だった。男は戸惑うでもなく、快諾するでもなく、静かに視線をよこした。

「なぜです?」不思議なことに、周囲の人間は誰も二人を気にせずに各々の作業に没頭していた。

「今朝方か、午前中に万年筆を落としたんです。探したんですが見つからなくて、もしかすると私のものかもしれません。その万年筆、どこかで拾ったんですか?それとも、あなたのものですか?」下村は焦りを自覚していたが、尋ねずにはいられなかった。

「これはあなたのものなんですか?確かに拾いものですが」男は背広から万年筆を取り出して見せた。印字されているイニシャルを下村に見せつけるように、彼は万年筆を手の中で回転させた。

「はいそうなんです。イニシャルも同じだし、間違いなく私のものです」

「いや、それはないな」男はまっすぐ下村の目を見ながら断言した。

下村は回答の意図がわからずに一瞬硬直した。

「どういうことですか?」

「この万年筆は、私に拾ってもらいたがっていました。あなたは皆に良い顔を振りまいていませんか?であればわからないのも当然ですね。あなたがみつけたものは、あなたに拾われたがっていたんですよ。けれどあなたはそれらを手放す。それでは、どうにも、いけませんよ」男はそっと万年筆を胸ポケットに戻した。車両には電車が風を裂く音と、男と下村の会話だけが響いていた。しかしそれを気にする者はだれ一人としていなかった。男は続けた。

「好意に対して好意を真摯に返さなければいけないんですよ。そうしないと、自分が求める時、肝心な時に、見放されてしまうからです。全てのものに平等に親切にするから、あなたは見限られるんですよ。平等は裏切りの可能性を常に伴っている」アナウンスが駅の到着がまもなくであることを知らせていた。下村の心臓の動機が早くなっていった。人々はもぞもぞと動き、下車の支度を始めた。

「無下にすると、見向きもされなくなりますよ。もう二度とまともな恋ができなくなると、くれぐれも注意したほうがいいでしょう」排気を出して扉が開いた。男は人の波に紛れ込んだ。下村は声を出そうとするが、言葉が見つからずに何も言えなかった。それから後を追おうとするが波に乗り遅れ、電車を降りた時にはもう男の姿を見失っていた。ホームで立ち尽くす下村を背に、扉が閉まり電車は行ってしまった。

 最寄り駅を降りて昇り階段、地上へ出ると傘をさしていつもより遅いペースで下村は歩いた。ポケットに空いてる片手をつっこみ、うつむきがちに考え事をしながら歩いていると、またもや老人が声をかけてきた。

「オウ、小僧、売る気になったか……傘を持ってるな……え?」相変わらず不快な笑顔を老人は浮かべていた。

「お前に売るものなんてないよ」そう言って立ち去ろうとした。

「誰かにとられたのか?」突然、老人がはっきりとした口調で言った。

下村は立ち止まる。

「ハハハ……わかりやすいやつだ……気にすることはない……マァ……一回どうだ、人のものの一つ、とってみたらどうだ……気晴らしによ……俺は責任はとらんがな……」下村は思わず振り返って老人を睨みながら去っていった。

   五

 次の日、車両には下村を見る者は誰もいない。下村の向かい側には本屋の袋があった。新書サイズのふくらみが見える、下村は無心でそれを見つめていた。車両には下村以外には誰もいない。何者にも見られていない。排気を押し出して扉が開く時、下村の顔に影が射した。立ち上がり、袋を手に取って車両を降りた。下村は自分の脈動をはっきりと感じていた。下村を見る者は誰もいない。

 改札の先にいつもの駅員がいた。気にしない素振りで改札を通った。

「今日はなかったんですね」駅員が声をかけ、下村が不審げに振り返った。

「え?」

「昨日もなかったですね。落としもの」駅員はにこやかな表情で話した。

「ああ、そういえばそうですね」

「それは?」駅員が本屋の袋を指さした。

「ああ、買ったんです」

 その日は老人のいる道を避けた。夜道の中、下村は何べんも何べんも後ろを振り返りながら、足早に歩いた。

 家にたどり着き、玄関のカギを閉めると、しばらくその場で立ちすくんだ。強く握っていた本屋の袋はしわだらけになっていた。今、自分の家の中に、自分のものではない、自分が買ったものでもないものが入っている。そう考えるとどっと冷や汗が吹き出し、動悸が早まっていることに気づいた。

     六

 それから毎日、下村は落としものを拾い集めた。家には落としものが増えていった。エコバッグ、折り畳み傘、ポーチ、サルのおもちゃ、書類……。家の片隅に落としものを集め、何をするでもなくただ集め続けた。使えるものがあれば、それを私物のように外に持ち出して使うようになった。人々は何も知らずに、下村の持っているものを、下村のものとして認識し、何も気づかずに過ごしているのだ。それが下村にはたまらなく心地良かった。下村は、これは俺のものだと、自分が勝ち得たものだと確信していた。誰にもとられない、物が俺を選んだ、俺の物なのだと。

 土曜のある日、珍しく下村から老人の元へ訪れた。それなりに人通りがあるものの、老人は全く意に介さずに日中からブルーシートを巻いて道端で眠りこけていた。下村はビニール傘で老人の肩を突っつき起こした。老人が顔を上げると、すぐに下村に変化があったことを感じ取った。一見何も変わらないようにも見えるが、余裕がにじみ出ていた。これにはさすがの老人もいささか警戒をしたが、寝ぼけ眼をこすり、すぐに平常心に戻った。

「お前、俺を起こすなんざァ偉くなったもんだな……え?」

「傘をやるよ」不意に言われて老人は虚を突かれた。

「欲しがってたろ?ほら、あの時のビニール傘だよ」下村は傘を差し出し、老人は受け取った。老人は品定めするようにしてぐっと目を凝らした。確かにあの時の傘だった。そのまま老人は下村を見た。やはり何かが確実に変わっているのだ。

「……良かろうさ……額はきっちり払ってやるよ……」

老人はポケットに手を入れ探ったが、下村はそれを制止した。

「金は要らない。お前にくれてやるよ」静かににらみ合ったが、やがて老人のほうが折れ、傘を自らの後ろに置いた。

「……かまわないが、お前は後悔することになるぞ、俺に売らなかったことをな……何があったかは知らんが」下村は乾いた笑いで返した。

     七

 次の日もいつものように仕事帰りの電車、紙袋を拾った。贈りもののような包装がされていた菓子の箱のようなものと手紙のようなものが入っていた。車両には誰もいなかった。下村以外には誰も。下村は誰にも見られていない。

扉が開くと車両を降り、改札を出た。そこで後ろから下村は声をかけられた。

振り返ると、顔なじみの駅員と、女性が一人いた。

「それ、なんです?」

「僕の物です。お見舞い用に買ったんです」平然と嘘をぬかした。下村にはもはや罪悪感などない。

「実はですね、この方が落としものを探しておりまして。乗っていたはずの電車が折り返してきたので、あるかと思って」サッと下村の体温が引いた。しかし表情は眉一つ動くことはなく、冷静に返した。

「何をお探しなんですか?」

「菓子折りです。それと同じ袋の」女性は紙袋を指さした。

「そうなんですね。あいにくですが、これは俺の物なので、失礼します」下村は踵を返して階段へ向かった。背中に二人の視線を感じたが、それを無視して歩き続けた。

 下村はとにかく階段を昇ることだけを考えていた。階段さえを昇ってしまえば、地上にさえ出れば、俺は夜に紛れて消えてしまう。誰にも捕まえられない。足早に去ってしまえばいいのだ。階段の一段目に足をかけた。誰も止めない。そして次の一歩、次の一歩と昇って行った。一歩が重く長い。上に見える夜闇に焦がれ、平静を装って昇り続けた。地上まであと三段、二段、一段、のところで呼び止められた。

「待ってください」駅員の声と、二つの足音が聞こえた。下村が振り返ると、平坦なまなざしで二人が見つめていた。

「申し訳ないのですが、中を確認させてもらっていいですか?」駅員が言う。

「なぜ?」下村は言う。

「メッセージカードが入っているんです。それを見れば、誰のものかわかりますよね」女性が言う。沈黙が挟まる。

 下村は無言で紙袋を差し出した。駅員は下村の目を見ながらそれを受け取った。右手を袋に入れて中を探った。下村は無心で紙袋を見つめた。それから駅員が言った。

「カードのようなものは入っていませんね」もう一度短い沈黙が挟まる。

「用が済んだら返してください」駅員は紙袋を手渡した。

「あらぬ疑いをおかけして申し訳ございません」下村は必死で手の震えを抑えて受け取ると、すぐにその場を去ろうとした。

が、

「待ってください」と、今度は女性に止められた。

「それは誰に渡すものなんです?」

「明日、入院していた友人に渡します」下村は適当にでっちあげた。

「包装の中に手紙を入れておいたんです。仕方ないですけど、包み紙を剥がして確認してもらえませんか」

「カードとは別に?」

「ええ、別に。もし違ったらその分も支払います」二人の視線が混ざり、沈黙になる。無言で下村は袋を差し出したが、もう片方の、ポケットに入れた手は震えていた。駅員は箱を取り出し、包装を剝がした。

それから駅員は茶封筒を中から取り出して見せた。下村は軽い笑い声が漏れた。下村は女性と顔を見合わせ、その次に駅員と見合わせ、それから、その場を歩き去った。誰も声を発さなかった。二人の視線は角を曲がるまで彼を刺し続けた。

 家までの道中で震えが止まらなくなり、近くの公園に寄って水道で吐いた。ポケットに抜いておいたメッセージカードを丸めて茂みに投げ捨てた。壊れていく感覚がしたが、身体の震えで何が壊れたのかわからずに、身体のあちこちを触って確かめたが、その身体がそこにあることしかわからなかった。それから自分が拾った落としものの一つ一つのことを考えた。それから数日間、風呂に入っても、布団に潜っても震えは止まらなかった。

     八

 異変が起こり始めたのはそれからだった。下村は落とし物をするようになった。ものをなくすようになった。一日のうちに何か一つ、一つずつなくなっていくのだ。どこかでなにかを落とし、ある時は部屋からもなくなり、いつからか下村は落とし物を拾わなくなった。最寄り駅は使わなくなった。その様子を老人に笑われた。

「お前、ずいぶんとカンロクがなくなったなァ……わらいもんだな……どうしたのかね?ヘマやらかしたのか……?ハハハ……いやはや……なんともブザマだなァ……」と笑われるたびに下村は老人に唾を吐き捨てた。ポケットに手を入れているが、その手は震えているのだ。内心はみじめに怯えきって震えている。

 何が下村は恐ろしいのかと言うと、自分が見放されていくことだった。拾ってきた物だけではなかった。自分の物さえも、なぜかなくなっていった。戸締りをしているはずなのに、鞄を肌身離さず持っているのに、物はなくなっていった。落ちていった。そしてきっと誰かに拾われているのだ。彼はことあるごとにその光景を想像した。それが一番恐ろしかった。

 その時の下村の欲求は、ただなにかを拾いたいという一心だった。他人の物を拾いたいのだ。しかし落とし物を見つけるたびに、駅員と女性のまなざしを思い出した。下村は見て見ぬふりをして素通りする。しかし、それでもなんとしても拾って自分の物にしたかった。会社でも、レストランでも、カフェでも、どこへ行っても人々が持つ物に目移りした。一目見ると、その物のことしか考えられなくなった。空腹のときの唾液のように、欲求が常に湧いて出てきた。下村は必死にそれを抑えていた。

 しかし、一か月もするとその飢えも限界までやってきた。ある週の土曜日、雨に打たれ、人が溢れる車両の中に落ちているハンカチを下村は見つめていた。それは確かに誰かの物だ。しかし拾ってポケットにさえ入れれば、自分の物だ。けれどそれはできない。他人のまなざしはそれを許さない。下村に憑いた恐れは消えることはなかった。

 貰うのはどうだろう、と考えてみた。ハンカチを拾い、すぐそこにいる女性に話しかけるのだ。こんな風に。

「すみません、これ、落ちていたのですが……。ええ、やはりあなたのものでしたか。一つ、お尋ねしたいのですが、これを僕に譲ってもらえませんか?」想像したが、すぐに打ち消した。そんなことをしてくれる人などいるはずもない。それから次にこう考えた。

 タダがダメなら売ってもらうのはどうだろう?俺がそれを買い取るのはどうだろう?

 ハンカチから窓に目をやり、川を見た。雨粒は川に飲まれ区別がつかなくなっていく。窓は車内の熱気で曇っていき、何ものも反射しなくなり、下村の表情を見れる者も誰もいなくなった。

     九

 土曜の昼下がり、東京は雨が降れども人は減らない。人混みはさざめき、波打っている。ビニール傘で漂う下村は手当たり次第に人に話しかけていた。

「すみません……それ、僕に売ってもらえませんか?……イエ……怪しい者ではありません、ほら、これぐらいならどうですか……?」

 誰にも相手にされずにただ一人、下村はさまよい続ける。ふとその時、すれ違いざまに誰かが肩をぶつけ、下村は倒れた。傘を取る前に下村は手を見て、腕時計がないことに気づいた。サッとぶつかったほうを見ると、老人が汚い笑みを浮かべながら、腕時計をヒラヒラと見せつけていた。下村は叫んだ。

「よこせ!俺のモンだぞ!」

 下村は立ち上がろうとしては濡れたアスファルトに足を滑らせこけた。老人は笑い声をあげ、人混みの中に紛れ、飲み込まれていった。深く広い東京の街は下村を飲んだ。それから老人を見た者はいない。

dehaze