novel

回晩行remix

回晩行

収録

刊行

8

ページ

4282

  • 1st短編集-回晩行

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 「ところでコード支払いってできますか?あっできない?できないんですね……。現金あったっけな……これでお願いします、はい、はい、ありがとうございました」

「お客さん、忘れ物ありますよ」

「おっと失礼、ありがとう!」

タクシードライバーは紙袋を差し出した。俺はドライバーの目を見ながらそれを受け取った。右手を袋に入れて中を探った。贈りもののような包装がされていた菓子の箱のようなものと手紙のようなものが入っていた。お見舞いに行くべきか、考えあぐねていたが、やっぱり行こうと決心するまでに三日ほどかかった。少し上等な、お菓子の詰め合わせの箱を持っていった。メーターが切り替わる音がした。

病室の外、四階建ての病院の、どこかの廊下で、あの足音が響いているのだ。革靴のこだまする音が。コップの破片を放置して、洗面所を出て、長い廊下を歩き始めた。その病院は掃除が行き届いていたので、靴の音がよく響いた。廊下には均等な距離を保って、片手で掴めるほどの小ささの石像が並べられていたが、それ以外は味気なく、合わせ鏡のように無限に同じ風景が続いた。

これが最初、だと思ってもいつも最初にならない。最初の後に最後があり、それがずっと続いている。テーブルの上のグラスに帯状の光が刺している。グラスの底に光が溜まり、水が光をテーブルに散らす。それを手で取りそこねてグラスは倒れて転がり、床に落ちて割れた。割れたグラスの代わりを買いに行こうとかを考えている。

雪は依然として降り続けていたが、二人の足音と雪の塊が木から落ちる音以外は何も聞こえも香りもしなかった。そのはずだったが、どこからか、別の足音が聞こえてきていた。いくつもの足音が山の細道を響いていたが、二人の足音は乱れ、後ろからやってくる足音は常に規則的だった。どれだけ歩いても一向にバス停は見えず、どんどん足音は近づいていった。

逃げる俺、すぐに捕まってしまう俺。それから調理場の酒瓶を取った。まだ波々と中身が入っている。赤く照る畳に影が刺す。肌を刺す寒さに床が軋む。階段を登ると四つの戸が廊下を挟んでいる。迷わず奥に進み、左の戸を音もなく開いた。

あいつは寝ていた。夕方に寝るとは良い身分だと思いながらも、静かに身体を跨いだ。見慣れた顔だ。何も知らず感ぜずに眠っている。そのままの殺意で思いきり振りかぶり、酒瓶を顔に叩きつけた。

「よく戻ってこられましたね」

「ここに帰ってきたのはついさっきだったよ。少しの間、捕まってただけだ」

 俺は動揺する。さっき俺は殺したはずなのだ、こいつを。

 殺そうと思った。誰もいなかった。あいつは警戒すらしていない。脇に包丁が置いてある。今が格好の機会だと直感で理解できた。少しでも思ったが最後、刹那をすぎた後は俺の身体中にその殺意が充満した。車両には俺を見る者は誰もいない。俺の向かい側には本屋の袋があった。新書サイズのふくらみが見える、俺は無心でそれを見つめていた。車両には俺以外には誰もいない。何者にも見られていない。俺を見る者は誰もいない。

その場で殺そうと思った。あいつはひどく痩せ細っていた。彼の泥だらけの細い首に手をかければ、たやすく締めることができそうだった。その時、俺は間違いなくシラフの正常だった。

「帰る場所はもうない。二人で逃げよう。……俺はずっと後悔してるよ……。お前と再会した時に、お前を殺してやればよかったんだ……。俺はきっと、一生涯悔やむに違いない……。後悔する必要はないなんて嘘だ……。今、あのところにいたらだ、俺はお前を殺せるのにな……。俺は、今あの瞬間だけをこれからずっと後悔することになるだろうな……」タクシーは進み続ける。メーターが切り替わる音がした。

その間にも、あいつは死に向かっていった。棺に入るあいつの姿を見て、俺はいつかの風呂を思い出した。蕾の花びらの浮いている風呂も、いつかは花の入った棺となるのだ。

「棺にいる人が死んでるのは当たり前と言えば当たり前だけどね」あいつが言った。本をずらすと、あいつが俺を見下ろしていた。

「確かに」俺は浴槽の底で仰向けになって身体を落ち着かせた。別れの時、棺の中に革靴が入っているのに気づいた。浴槽の蓋を半分ほど広げた状態で乗せた。腹から下が隠れた状態で、俺は本を顔の上に持ちあげて読み始めた。まるで棺の中で死んでいるみたいだ、と思った。何かしらの不安を感じながら風呂の蓋を開けると、水面に花びらが浮いていた。摘んだ蕾の花びらだ、とすぐに俺は気づいた。甘い匂いがするのだ。フルーティーな香りのシャンプー、三星堂の提供でお送りします……。黙ったまま俺はケースから包丁を取り出してリンゴの皮を剥き始めた。小さな畑が一人の人間によって飲まれている昼の盛りを過ぎかけた午後である。

 猫の背に顔をうずめてみると、桃のような匂いがした。俺はその匂いがすぐ好きになった。また目を閉じて、今度は猫を全身で感じようとした。鼻から匂いを吸い、両手で猫の体温と心臓の鼓動を感じた。俺はあいつの手に己の手を重ねて光を代わりに受けた。その光はあいつを焼く事は愚か、痒くも温かくもさせなかった。代わりに手のひらは焼かれていく。それからあいつは唇を求めるような素振りで顔を寄せ、俺の耳を寄せた。彼女の息だけを感じて、どんな顔をしているのかは彼にはわからない。髪を耳にかけ、もう少し俺の耳に唇を寄せ、近い距離でまた眼差しを合わせた。どれだけ近づいても眼差しの深さは俺にはわからない。これからがわからない二人。何が起こるのかわからない二人。恐ろしい二人。俺はいつまでも大人になれずにいるからさ、わからないんだ……。

騒々しいアナウンスが流れてくる中に電車が遅れてやってきた。電車を降りると、あいつには優しい時間だった。

「公園に来たのはいつ以来だ」また俺は公園に向かった。目的は公園にある池だった。

「電車でこの街に来てから」

「傘をやるよ」不意に言われてあいつは虚を突かれた。

「欲しがってたろ?ほら、あの時の傘だよ」木漏れ日はあいつの日傘にまだらの模様を落とし、日傘はあいつに影を纏わせている。

それを見ていたのは、すぐそばのベンチにいた子供だった。子供が一人、弁当箱を抱えているのを俺は目ざとく見つけた。子供がわっと声を上げてそれぞれ別の方向へ走り去っていった。手には鏡が握られていた。変わらずアカ抜けない少女。掃除は続いている。確かに明るくなっている廊下。確かな少女の成長。これからさらに垢抜けて彼女が美しくなることを想像すると、恐ろしさすら感じられた。それよりも何年か前におさげはほどかれて、今はショートヘアにセーラー服を着ている。

ときどき鳥のことを思い出してみる。庭にポインセチアが咲き、少女の元にも香りがやってくる。安らかなものの見てくれ、風、柔らかさはありきたりではある。けれどもそれが良い。なにか特別なものじゃなく、ありきたりでもあたたかさを求めている。この気持ちを放ちたくなる。伝えたくなる。少女はそう感じる。魔女との対話の端々に慈しみを感じる。ずっと浸っている。後悔してもしきれません。けど、たしかに俺は幸せでした。俺は溺れ死んでもいいから、これにずっと浸っていたい。ひたすらな美しさ、見てくれだけの美しさ、音、五感、直感だけで魅せてほしいし、溺れさせてほしかった。これからの人生の全てをめちゃくちゃにするほどの感情に溺れたかった。

帰り際に、あいつは紙袋にドーナツのあまりを入れて持たせてくれた。またいつでも来るように、と少女に伝えて、お互い手を振って別れた。

「それを通して自分の今を理解することもある。根本にあるものは、君と一緒かもしれない」最後に一杯ずつ飲み、それから別れた。やがてそれぞれの班が別れる時、順子の視線は再び佐々木を探った。できなかった別れの挨拶、残る悪いうわさ。

「君はたった今、一人の親友と別れた。それは君の言う通り、誰しもが経験することなのだよ。急ぐ必要もない」

 二人が別れる時間と場所に向かって、見送りをするように歩いていった。別れようと思っていた。特別でもなかったが、確かにあいつは俺の一部として存在していた。もちろん、簡単に別れられるはずがなかった。

最低限生きるための労働をして、あいつとは連絡を取らなくなってからもう九年経つ。人の縁などその程度のもんだ。眠くなったら寝る。私の意図なしに、俺の夢は俺の知らぬ物語を紡いでいく。夢の中で、断片の残りカスで物語を作る俺。しばらく沈黙にふけった。外は晴れ、鳥の声を一つずつ伺い、畳に映る光の映りゆく様をあいつは見つめていた。開示されるたびに俺の沈黙は重なり、思考はさまよう。あいつが言葉を向けているのは閉ざした俺なのか、潮風か、それさえも疑わしい。今まで感じたものの中で一番重い沈黙があった。やがて言葉が輪郭を捉える時を待つ。俺には何も見えなくなる。潮風は俺を吹き抜け、一瞬にして何億年もの時間が過ぎ、風に当てられた全てが朽ち、言葉は流されていく。

「あれは、きっと誰も悪くなかった。またいつかね」もう一度汽笛を鳴らしてから汽車は動き出した。お互い手を振り、ずっと振り続けた。あいつは窓から顔を出したまま、俺はそのまま手を振り、やがてトンネルの影が乱暴にあいつを飲み込むまでずっと振り続けた。

別れを終えて、再び俺は歩き始める。別れる時を経ると忘れる時が訪れる。

信号が切り替わり、立ち止まった。花束がないことに気づき、焦った。周囲を見渡すと、自転車の男が紙袋を持っていっていた。

俺は叫んだ。

「よこせ!俺のモンだぞ!」深夜だがほどなくしてタクシーはやってきた。

「あいつ、追ってください」タクシーは同じところをぐるぐる回りながらも、決まったエンジンの回転で、ときどき隆起を乗り越える荒々しさで振動を続ける。コマに描かれた模様と記号はどれだけトガった形でも、回転すれば混って一つの円になる。

俺はただ、ことの行く末を見届けようとしていた。流れに抗ってしばらく行くとまた流され、何度も往来する。何しろ俺たちは先に行く必要がある。残された時間は限られているからね。始まりの晩が降りてきた昨晩、自分たちがこの道を行ったことが信じられなかった。夜は老けこんでいく。ひったくりはどんどん体力を落としていったのか、もう一息というところまで接近してきていた。

「すみません、ありがとうございます、こっからは一人で行きます、ありがとう。ところでコード支払いってできますか?あっできない?ここもできないんですね……」

雨に濡れた街並みに泥棒の姿が消えていくのを俺は見届けた。

dehaze