一
七助は幼い頃から無口で臆病で心優しい奴だった。七助はとにかく汚れたものを嫌っていた。ただ汚れている物や、下劣なもの、煙草を吸う少年、理由もなく同級生をいびる教師、それらに口出しをしない彼自身を嫌っていた。
七助の向かいの家に住んでいた青年の遺骨が戻ってきた時の、おびえた表情を今も覚えている。冷ややかさと死が身近にいる感覚を、折り合いをつけて割ろうとしても割り切れずに、不釣り合いな割合でいびつな塊として吐き出してしまったような表情だった。七助にとって、それは耐え難く悲惨なものなのだろう。真面目な、しかし特出するほど優秀でもない、ごく普通の奴だった。そのような真反対な二人だったが、両親同士の仲の良さもあって幼い頃から親しく接していた。俺に友人と言える友人は七助しかおらず、七助もまたそうだった。
俺はというと、ありとあらゆる悪行という悪行をやってのけ、しょっちゅう大人たちからは叱咤され、子供らからは恐れられていた。気弱な七助は遠くからそれを見ていた。俺の暴走に自ら加担することは一度もなかった(巻き込まれることは多々あったが)。悪行というのはどのようなものだったかというと、それは数え出したらきりがないほどの様々な悪行であったが度合いも—子供らしいものから笑えないものまでほとんど—様々だった。俺のその行いは常に大人を怒らせたが、駅長はというとこれまた特殊だった。駅の構内でどれだけ俺がいたずらをしても、駅長は感情を表には一切出さず、ただじっと見つめていた。俺も最初はそれに対抗して、いくつかの反撃—壁の落書きから改札に向かって投げこんだ爆竹まで—を行なったが、全く怒りも苛立ちも表さない駅長に屈し、一年ほどで諦めた。その二人の静かな対立を知っている者は、本人たちとそれを見ている七助の三人しかいないだろう。一度も言葉を交わさなかったが、勝負はいつも静かに始まり、静かに終わっていたのだった。
俺がそういった暴走を行った後は、二人で決まって町のはずれにある、川のほとりで菓子を食べた。七助の親が和菓子屋を営んでいたので、菓子を小包に携えてやってくるのだ。鬱蒼とした木々の間から、木漏れ日が地べたに這う道を駆け回り、川原で座って談笑し、菓子を二人で食べたりして、日々のあいた時間を過ごした。日が沈み始める頃になると、泥だらけになって家に帰った。
今思い返してみると、二人とも意図的に戦争の話題を避けていたような気がする。人生の潮目を身近に感じられる時、今まさに戦場へ引きずり込まれてもおかしくない年頃になるまで、俺と七助はそれを避けてきた。
七助がその話題を露骨に避け始めたのも、確か青年の遺骨が戻ってきた時、それ以降だった。しかし無視することができないほど近寄ってきていた。それから少しも経たないうちに俺の弟が出征した。
ずるずると日常を引っ張っていっても、一向に戦争は終わらなかった。七助は無視をしている間に戦争が終わることを願っていたのだろうが、それは徒労に終わった。召集令状が七助の家にも届いた。七助は縁談の最中だったが、しかしすぐに出兵しなければならない上に、相手方の都合もあるのですぐには結婚はできないそうだった。
俺は親の和菓子屋を継ごうとしている七助が、人を殺す光景を想像することができなかった。きっと饅頭をせっせと作っている方が性に合っているだろう。七助が出兵する日が近づくにつれてそのようなことばかりを考えていた。まるで七助の無口が移ったように、俺も無口になっていった。二人の沈黙の時間が増えた。
七助の相手と俺は出征前に会った。控えめにめかしこんだ女性と彼女の父親らしき男性が七助と共に家から出てくるところに、偶然遭遇したのだ。俺と目があった七助は、彼女に耳打ちをした。その女性は俺に軽く会釈をした。俺もそれを返した。二人とすれ違った後に、振り返って後ろ姿を見た。七助の姿は、どことなく大人びた表情をするようになっていた。女性は澄ました横顔をしていた。
出征の前夜は七助の家で壮行会をした。俺の父が飲んで騒いでいる間に、俺と七助は縁側で静かに酒を煽っていた。
「縁談は上手くいってるのか」俺はふと尋ねた。七助の表情は既に何か変なものが混じっていた。俺は壊れ始めた七助の胸中などに構うことなく、のうのうと話しかけていた。
「大丈夫だよ。多分、帰ってきたら結婚することになるだろうね」
「帰ってくることができたら、な」
「帰ってこれるかな」俺は遠くを見つめて無視した。
「僕が死んだらあの子を貰ってよ、そうしないと可哀想だ」
「酷い奴」父親の歌っている声が遠くの部屋からよく聞こえた。
七助は結婚せずに家を出た。話し相手がいなくなっても、俺は一人で川辺に行ってただ時間をつぶした。俺はいったい何をやっているのだろうか、疑問に思ったが、しかし特別何かをやることはしなかった。
七助が消えたすぐ後に、弟が骨になって帰ってきた。遺骨の入った箱を抱いて母は泣いていたが、俺はその箱を見る気すら起きなかった。その骨が本当に弟なのか、知れたものではない。そのような無粋なことは決して誰にもいわなかったが。
次に家族の中から戦場に行く人がいるとすれば俺だった。それは家族の共通認識だったが、誰も口に出すことはしなかった。俺も何も知らないふりをした。七助のように無視を決めこんだ。そしてなぜか俺は一向に召集されなかった。
二
生活は変わって行った。七助の家は店をたたみ、俺は川へ行くこともなくなった。俺はとにかく働き、夜は痩せ始めた腹を抱えて、泥のように眠った。浮き出てくる肋骨の輪郭に触れながら、弟の骨もこんな触感だったんだろうかと、考えてみた。俺の思考も変わっていった。善悪の境目を区別できなくなっていった。
最初は財布を掏られた時だった。俺は金がないことに気がつくと、落胆する前に、純粋な興味が湧いた。そして希望を抱いた。他人の金や食料を盗むことほど、効率的な方法はないのではないかと思った。幸か不幸か、俺は単純だったのですぐ行動に移そうと思った。自宅に帰ろうとしていた足をそのまま神社の方へ、軽い足取りで向かった。
神社では食料を配っていた。その人だかりを狙おうとしたのだった。しかしこれが意外と難しかった。皆腹が減って気が立っているのか、少し近づいただけで疑わしげな視線を投げかけてきた。何度か試みたが、結局かなわずに俺は諦めて神社の縁に腰掛けた。俺も腹が減っていた。財布を盗んだどこの誰かも知らぬ輩に敬意を抱いた。腹が減っている人間より、今の俺のように注意力もなく、疲弊しきっている人間の方が狙いやすいのだと、盗人の手の内が少しわかった気がした。そのまま仰向けになると、寺の中に寝転がっている二人の子供が視界に入ったので、居心地が悪くなり、すぐに起き上がって場所を変えた。
神社をふらふらと歩き回ってみても、誰も祈る者も居らず、賽銭を投げる者もいなかった。誰にも見向きもされない本殿を哀れに思い、そちらへえっちらおっちら歩いて行った。一人、本殿の前で拝んでいる女性がいた。感心しながらも、もしかすると何か値打ちのある物を盗れるんじゃないかと近寄ってみると、その女性は七助の縁談相手だった。俺は彼女に気にせずに賽銭を投げようとしたが、財布を掏られていたことを思い出して、仕方なく小石を適当に拾い投げて賽銭箱に入れた。手を合わせてじっと目を瞑っても、何を祈ればいいのかわからなかったので、とりあえず死んだ弟のことを考えた。
目を開けて振り返ると女性と目が合った。