novel

日暮の労働者/day laborer

旅のような庭

収録

刊行

8

ページ

3253

  • 3rd短編集-旅のような庭

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 岩よりも大きな女が背中を揺らして泣いている。食べかけの菓子パンを食べ切る前に泣いている。食べるより前に涙がこぼれて、それをどうにかして止めようと空いた左手と塞がった右手の手首で目を拭ったが止まらなかった。こらえようとしても、嗚咽が出た。抑えようとしても涙が止まらない。抑えようとすればするほど涙は出てきて、そのたびにゆさゆさと背中が揺れた。

 もう彼女をおさえられる者はいない。彼女自身さえも止められないほど、涙は溢れ出てきた。彼女も泣きたくて泣いているわけではなかった。だが泣き出したものはもう止められなかった。だから泣きたいように泣き続けた。泣いている理由は本人にもわからない。思い当たることなどいくらでもある。あれなのか、これなのか、そのすべてなのか、わからない。けれど今はとにかく悲しい。今あることのすべてが悲しい。生きていることのすべてが悲しい。

 どれだけ泣いたかはわからないが、いつのまにか女は自分が泣き止んでいることに気づく。涙がすっぱり出なくなってしまった。残っているのは濡れた手、濡れた服、濡れた顔だけだった。涙が止まっていることに呆然として、女は顔を上げた。

 女は公園のベンチに座っていた。目の前には原っぱがある。その先に砂利の道が、さらにその先に柵とその下に川が、その向こうに車道が走っている。さらにその向こうは町だ。川の向こうで走っている車。女の背後の遊具で遊ぶ子供。その間を川が流れている。川がすぐ海につながっているここは港町だ。公園の中を、子供たちの間を、群生する木々の間を滑るように流れる風はずっと吹いている。女が泣いている間も、女が公園に来る前から、ずっと吹いていた。風が女の髪を揺らす。深い緑地に花柄のワンピースの上、女の芯のようにまっすぐな、三つ編みの髪が揺れている。

 女は立ち上がる。まず菓子パンを捨てた。それから服をすべて脱いで素裸になって、三つ編みを解いた。それから公園の淵、堀のそばまで行った。そこから川を見下ろす。昼の光に照らされる川が流れている。女はその中に飛び込んだ。

 大きな水音がして、公園にいる人々がそちらに顔を向けた。だがもうそこに女はいない。女は川を泳いでいた。

 綺麗な川ではなかった。泥やゴミや排気ガスが混ざった川で、女はまず顔を両手で拭った。涙を流した後のひりつきが残っていたが、心地良くもあった。見上げると夏の日差しにさらされていた。女は日に、公園にいる人々に、町に見られているのを感じたが、それに動じず泳ぎはじめた。川の汚れなど、女にはどうでもよかった。泳ぐために泳いだ。両手を大きく広げては胴体をうねらせ、水を掴んで進んだ。女の筋肉がうねって水を掻いた。日々の垢が、川の泥と一緒になって流れ落ちていった。

 女の泳ぎに焦りはなく、確実なものだった。しっかりと水を掴んで泳いでいった。とても力強い泳ぎだった。焦りはないが、しかし少しずつ体力に乱れが生じていた。それでも女は一定の速さを保って、呼吸のリズムを保って泳いだ。女には自分が呼吸する音が、肉体が動く音が、血液の流れが加速する音が聞こえた。目指すべきものは何もない。果てしなく長く続く高い塀、川を川にさせている塀の間から、その先を見据えながら泳いだ。先には塀の終わり、開かれた海がある。その方向へ進んだ。そしてたった今、歩道橋の下を通過した。女が昨晩、飛び降りたかもしれない橋だった。

 女は毎晩、高速道路の一車線を堰き止めて工事をする。三角コーンを並べ、大きな標識を置き、大きな空気人形を膨らませ、それらを光らせ、反射板のついたベストとヘルメットをつけて、仕事をした。

dehaze