novel

菓子折り端折り

回晩行

収録

刊行

11

ページ

5694

  • 1st短編集-回晩行

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 その病院は掃除が行き届いていたので、靴の音がよく響いた。その日に順子が持ってきたのは二つのリンゴだった。

 数日前に小学五年生になる息子の洋太が骨折をして入院をした。サッカーチームの練習中の事故だったらしいが、夫は

「男がその程度で骨折するなんて情けない」

と言って、頑なにお見舞いに行きたがらなかった。

 ただ面倒なだけだろうという夫の失望を表に出しはせずに、結局は順子が一人で息子のお見舞いに毎日通っていた。

 洋太は果物が好きだったので、順子は果物を持って行った。洋太が寂しい思いをしていないといいのだが、と思ってやっていたが、心配の必要もないようだった。いつも放課後になると陽太の友達がやってきていたからだ。わんぱく坊主たちがやってくると病室は賑やかになり、洋太も退屈しないようだったので、順子も男の子たちに助けられていた。

 お見舞いの品を持ってこないものの、しゃべり盛りの彼らは洋太に有意義な時間をもたらしてくれていた。そして夕方ごろ、暗くなると看護婦が彼らを叱りつけてようやく退散する、そんな日が続いた。

 しかし土曜日になると様子は違った。

 昼前に洋太の病室に入ると、小さな花束がベッドの脇のテーブルに置いてあった。

 女子からのものだと順子はすぐさま察知した。あの小僧どもが花束を贈ろうだなんて考えるはずがない。

「これ、誰からもらったの?」

何気なく洋太に聞いてみた。

「コータ君からだよ」

「ふーん」

 洋太はコミックを読んで素知らぬふりをしていたが、簡単に見抜ける嘘だった。

「花瓶の一つでも用意しておけばよかったな」

と順子が言っても、洋太は中身のないカラ返事しかしないので、やはり図星だと確信した。

 平日なら放課後の寄り道感覚でお見舞いもするだろうが、土曜は遊ぶのに忙しいので男子どももやってこない。と、その女の子は目論んでやってきたのだろうと想像してみた。   

 黙ったまま順子はケースから包丁を取り出してリンゴの皮を剥き始めた。

 順子が病室でリンゴの皮剥きをするのはいつ以来だったか、中学二年生の頃だったと覚えがあった。

 順子の母は彼女が生まれてすぐに亡くなっていたので、母の記憶もほとんどなく、寂しくもなかった。父は一人で順子を育て上げるために仕事に明け暮れ、祖母が順子の面倒を見てくれていた。

 祖母はよく順子を怖がらせる怪談をして、順子もそれを聞くのが好きだった。一番のお気に入りは、奇妙な足音のする話だった。

 何か子供が悪いことを考えると、どこからか、コツコツとよく音の響く、靴の音がやってくるのだった。足音はまるで洞窟を歩いているようにこだましながらやってくる。だんだん近づいてくる足音から逃げるには、左耳後ろの髪を撫でつけるか、すぐに悪いことを考えることをやめるしかないと祖母はおどろおどろしく喋った。

 中学に入る頃、祖母は順子が誰なのか分からなくなって施設に入り、次第に身体も衰弱していき、ついには入院した。相変わらず忙しい父は世話もできないので、順子は放課後に祖母に会いに行くことが日課になった。

 祖母は順子を認知することはできなくなっていたが、順子は毎日通い、その日の学校であったこと、学んだことを話した。順子は今までの立場が逆転したような、不思議な気分になった。順子は丁寧に一つ一つ話して聞かせた。祖母は黙ってニコニコとうなずきながら聞いていたが、次の日にはまるっきり内容を忘れ去っていた。それでも順子は自分のことを話し続けた。次第に、順子は自分がやっていることは、話をすることではなく、2人の時間を作りだすことをしているようなつもりになっていった。

 その病室には祖母の他に、小学生低学年ぐらいの小さな女の子がいた。その子の兄が、順子と同じクラスの佐々木だった。妹は病弱で、入院生活には慣れているらしかったが、週に三、四回、佐々木は妹のお見舞いにやってきていた。

 中学二年生のクラス替えになって、順子は佐々木と同じクラスになった。それから少しずつ、病院で喋るようになった。佐々木は妹とよく折り紙をして遊んでいた。私にも折り紙をしてみせたりして、お互い家のこと、家族のことを話すようになった。

 佐々木はよく笑う男だった。ちょっとずつ声変わりが始まる頃の、過渡期のような声をしていた。背は高く、学年の中でも足が早く、バスケ部のレギュラーにもなっている、学校の中でも確かな知名度があった。

 学校での佐々木は男女問わず、それなりに信頼を得ている人間だった。それほどクラスの中心人物ではない順子はそれを遠くから見るだけで、なるべく学校では話さないようにしていた。佐々木とは病院で喋るだけの、それっきりの関係だった。それが三ヶ月ほど経つと、異変が起こった。

 佐々木と喋っている最中、足音が聞こえるのだった。

 病室の外、四階建ての病院の、どこかの廊下で、あの足音が響いているのだ。革靴のこだまする音が。

dehaze