novel

指から虚へ/F to L

旅のような庭

収録

刊行

8

ページ

3258

  • 3rd短編集-旅のような庭

  • 試し読み

 ピアノの蓋を開ける時は閉じる時のことを考えなければいけない。鍵盤に触れる時はそこから指を離す時のことを考えなければいけない。生の素肌でペダルの冷たさを感じなければいけない。靴下は脱いでね。それでようやく準備が整う。限られた時間の中では、限られた曲の限られた箇所を限られた回数しか弾けない。一音一音が意味を持つ。無駄にしてもいいけど、無駄な音にも意味を見出した方がいい。それが心がけるべきことだ。今から君は音を出すんだね。どんな音が出るんだろう。

 ところで今はどんな気持ち?嬉しいやら悲しいやら楽しいやら疲れたやらなにやら……。まあどんな気持ちでもいいんだよ。どんな気持ちであれ、それは正しい。覚えておかないといけないのは、その気持ちがそのまま音に出るってことだ。あらゆる気持ちが正しいのであれば、あらゆる音も正しい。だから少しでも肩の荷が降りればいいんだけれど。

 ようやく椅子に座れたね。ちょっと手を開いたり閉じたりしてみて。それで、指はどんな感じだろう?硬い?ほぐれてる?冷たい?まっすぐ?音と気持ちと同じで、指だって間違いはない。すべて正しいよ。弾き始めたらわかる。鍵盤の温度がわかるだろ?指はそれに馴染んでいく。君は鍵盤に委ねればいい。

 最後にもう一つ、重要なことを教えよう。打鍵をしたら、最初から最後まで気を抜いちゃいけない。最初と最後……つまり指で鍵盤を押してから、鍵盤から指を離すまで。打鍵は鍵盤を押すだけじゃない。指を離して鍵盤が元の高さに戻るところまで、最後の最後まで音色に関わっている。指が鍵盤から離れて、空に放り出されるまでが音だ。それだけは忘れないでほしい。

 わたしが先生に教わったのはこれで全部。毎回このくだりでレッスンが始まった。寝る前の子供に読み聞かせをするような愛情をもって、身振り手振りをつけて教えてくれた。ピアノの前で私はスリッパと靴下を脱いで、先生が時計を指差したら時計を見て、自分の気持ちを確かめて、裸足でペダルの冷たさを確かめて、両手のコンディションを確かめて、それからようやく鍵盤に触れる。先生はピアノに少し体重を任せて、言葉を一つ一つわたしに向けた。先生の言葉は不思議だった。なんべんも同じ言葉を発してきたはずなのに義務的ではなく、まるで大切に人へ向けるささやかな口調のままだった。

 実際のところ、先生は今までにこの指導を何回してきたんだろう?わたしの前にも生徒を持っていたんだろうか?とても失礼かもしれないけど、先生の教え子はわたし一人しかいない確信をずっと持っていた。だって先生はピアノを弾けなかったから。

 指導が終わると、先生はピアノの真横に置いてある腰掛けに座る。私が鍵盤に全ての指をのせると、先生は腕組みをして目をつぶる。

 最初は指の運動から始める。ハノンのエチュードを五分間弾く。ただ、それを無音で弾かないといけない。それが最初は難しかった。鍵盤を押しながら、しかし無音のまま指を離すことは、それなりに力のコントロールが必要だった。加減を間違えて音が出ても、先生は何も言わずに目をつぶったままだった。そうするとわたしはなんだか負けたような気がして、頭からやり直した。全て無音で運指をやりとげるまで。もちろん五分間無音でやりとげたとしても、先生は目をつぶったまま。それからようやく普通に音を出して曲を弾き始める。まるで無音で打鍵をしていた時間がなかったかのように。

 音を出して弾いているとき、無音の時間のことをわたしは考える。ピアノはどんな気持ちだろう?出るはずだった音のことも考える。無音になってしまった音はどんな音だったろう?すべてわたしの指次第だ。「こいつは今から音を出すんだ」と思って上に上がったハンマーは、すんでのところで上がりきらず、あるいは音の出ない力まで失速して、何も果たせずに定位置に戻る。すべて私の指が鍵盤を押して、離すまでの力加減次第だ。

 考えていることを先生に話したことはない。先生は先生で、じっと目をつぶったまま、わたしの出す音を入念に聞き込んでいるだけで、毎回何も言わずにレッスンは終わる。わたしがミスタッチをしても、テンポがおかしくても、先生は何も言わないので、本当にこの人はピアノを一音でも弾いたことすらないんじゃないかしらとさえ思う。それでも、わたしは弾ける曲が増えていって、不思議とピアノが上手くなった。気がする。

dehaze