novel

涅槃猫と放浪犬

至暗面呼

収録

刊行

25

ページ

11557

  • 試し読み

  • 2nd短編集-至暗面呼

 涅槃猫はふわふわグレーで尻尾は黒いデブ猫。ふてぶてしい顔と態度がとてもキュート。いつも家のあったかい場所を探し探し、呑気にあくびなんかしてる。悩みがなさそうでいいなと主人は思ってる。けどネハン猫だって、たくさんのことを見てきた。主人の人生のちょっとした一部始終。

 ネコがやってきたのは主人が結婚した時。ずっとネコを飼うのが主人の夢だった。これから夢いっぱいの生活と思っていたがそうはいかなかった。主人には辛いことがたくさん待っていた。奥さんが事故死して、両親も病気で死に、二十八歳の一年間で立て続けに家族を失った。保険金と遺産だけが主人の元に残った。辛かったけど、主人はとにかく頑張った。それで覚悟を決めた。十年間みっちり働いてから会社を辞めた。ネコを連れて山のふもと、海の見える一戸建てを買った。それで満たされた。愛する人々を失った主人にとって、ネコと一緒にいられる場所があればもうそれで十分だった。人々が働いている中、ひとりだけネコと海の見える家にいる。決められた苦痛に満ちた一本道からすべり出して、解脱した気分だった。猫さえいれば、もうそれ以上は求めない。主人はネコとの日々に愛情を注いだ。

 そんなふうに思われているとは知らないネハン猫、いつも満たされずにおやつをねだって鳴いている。そんな時間が何年かあった。

 ある日、主人が海辺を散歩していると、砂浜と町を隔てる、コンクリートの壁際に丸くなった犬を見つけた。近づいてみると、犬じゃなく、高校生ぐらいの少年だった。少年はとても疲れきった表情で眠っていた。人の気配で目覚めた少年を見て、主人は不憫に思い、家に連れて帰った。少年は静かに、なすがままに主人について行った。まるで従順な犬のよう。

 家に帰ると、主人は料理を始めた。その間、少年はリビングのソファに座ってぼんやりとしていた。ネコはソファの正面にあるテレビ台から少年をじっと見ている。ネコはキッチンから漂う美味しそうな匂いで、食事をする喜びに目覚めている。少年はいまだに眠そうな顔で、ずっと砂浜の隅でうずくまった気持ちのままだった。

 主人は大皿で山盛りのトマトソースパスタをふるまった。ネコにはカリカリしたやつをやった。あきらかに人間の皿の方が大盛りで、不機嫌になるネコ。それでも綺麗に一つも残さずペロリとたいらげた。少年もパスタを全部たいらげた。貪るようにがっついて食べる少年を、主人はにこにこしながら黙って眺めていた。

 それから主人は風呂を貸し、寝床も貸してやった。少年は寝室に案内された。驚くほど綺麗で、誰も住んでいる気配のないまっさらな部屋だった。

「空いてる部屋だから好きに使っていい」とだけ言い残して、主人は自分の部屋へ戻っていった。一人になる少年。少しだけ躊躇もしたけれど、もうくたびれきっていた少年は考えることをやめて、ベッドに潜った。まるでベッドに潜れば嫌なことを全部忘れられると信じているかのように、とても深く潜った。

 けれど、一日眠れば嫌なことは全て忘れられる、なんてことあるはずもなかった。少年はずっと塞ぎ込んで、部屋の中に引きこもっていた。その部屋はひどくこざっぱりしていた。ベッドに白いデスク、茶色い小さな腰掛け、背の高い本棚、どれもまるで人の手に触れられたことがないかのように綺麗だった。本棚には、主に女性作家の小説が揃っていた。リース、ウルフ、サガン、アーレント、エリオット。少年は来る日も来る日もそれらを読みふけった。

 少年はずっと静かだったが、夜になると、思い出したように泣きはじめ、主人はちゃんとその音を聞き逃さなかったが、そっとしておいた。主人は少年の好きなようにさせて、三食きっちり振る舞ってやった。ネコは時折、そっと扉を開けて少年のいる部屋にやってきて、少年の観察しては、また気まぐれにどこかに去っていった。

 ある日、少年はあることが気になった。この部屋は誰の部屋なんだろう?たしかに、人が生活するために作られたであろう部屋だった。けれど部屋の主はいない。かと思えば、掃除はきっちりと隅々まで行き届いていた。主人は何を思って、この部屋を残してあるんだろう?気になったが尋ねることはなかった。

 そんなふうに一週間経った。少年は本を読み続けていて、しばらくすると周りの音が聞こえてきた。主人が掃除機をかける音。洗濯機を回す音。主人が歩く音。その後ろをついていくネコの足音。

 少年には、主人が部屋に向かってくる足音がわかる。少年のいる部屋を通過していく足音とは確かに違いがあった。いつも穏やかな主人だったが、少年のいる部屋に向かおうとしている時、その時は一際穏やかな足音だった。まるでそこへ向かう喜びのあるような……悲しみもあるような……そんな足音だった。それが少年をますます深入りさせていった。この部屋は、主人にとってどういう部屋なんだろう?部屋の何が、主人をそうさせているんだろう?足音を聞いていると、主人の背景を知ることは、主人の痛みを知ることのようでもある気がした。

dehaze