血は肉の隙間から自然と湧き出し、肉をつたって円をくぐり抜け、垂れ落ちていく先は別の円。そうしているうちに、廊下を歩く音が聞こえて、扉の前で立ち止まり、扉が開いてあいつが入ってくる。私の姿を見て立ち止まったのを感じる。
「気にしないでいい、入っていい」顔を上げずに私が言うと、返事も返さずにあいつはずけずけと部屋に入り込んだ。私がうつむいてじっと見つめている円は、血が落ちていく先の円。
「調子はどうだい」私の背中越しにあいつの声と、窓が開く音と続けてライターの音がして、間を開けて煙の臭いがこちらに来る。
「見てわかるでしょう」
「とんだ災難だね」
「別にいいの。血には慣れてるし」
「それで、進捗はどうなのさ」
無言。
「沈黙が答え、ってか」むかついた私はゴミ箱をつかんで、あいつに向かって投げつけた。あいつはバカにするように笑って避けて、ゴミ箱は窓に当たって床に落ち、ティッシュが散乱した。これは鼻血の話。しかしこれはただの作り話で、私の勝手に作った物語だ。
私は断片をつなげて物語を組み立てる。断片は身近なものだったり、昔の記憶だったりする。自分の遠くにあるものだったりもする。できあがる物語は全てつくりものだ。けれど、締め切りが近いこと、進捗が無いことは揺るぎない事実だ。
b
夕飯の準備をしている最中にテレビをつけると、夕方のニュースが終わろうとしていた。キャスターの呼びかけで映像は交差点に変わり、そこで行く行く人々は傘をさしている。一週間の天気のテロップとともにカメラが引いていき、曇りの湿度に濡れた都会の全体像があらわになろうとする。夕方のニュースの終わりの天気予報と交差点、傘、不吉な予感を抱いた私はこの断片をしまっておく。きっといつか役に立つだろう。例えば、不吉な物語を構築するときに。
映像は天気予報士と着ぐるみのキャラクターに切り替わる。着ぐるみの中身を想像してみる。というのも、あいつは着ぐるみのバイトをよくやっているからだ。金もない学生時代のジリ貧生活、ちょうどいい背格好、ちょうどいい体型のあいつ、あいつの天職、色々な場所へ赴く、キャラクターの実績と経験の数々、プロと遜色のない技術。私も一度、あいつの現場に行った。東京駅、鉄道のキャラクターの着ぐるみ、集まる子供たち、慈愛に満ちた演技。愛嬌を振りまくあいつの隠されたいやらしい笑み。
もちろん、これも作り話で、あいつはずっとフリーターで、コンビニでバイトを続ける生活をしている。人を苛立たせることに快楽を見出すあいつが、着ぐるみなんてできるはずがない。そんな話。
c
断片はより深い細部にも宿る。母子家庭で育つ私、母と二人の暮らし、誘拐、黒いスズキのクロスビー、飛んだ意識、部屋には何もない、壁はコンクリートうちっぱなし。何もないというのは、やっぱり嘘で、一つの扉、天井に一つのカンテラ、扉の向かいの壁には一つの穴、きれいな円を描く穴、ちょうど膝あたりの高さにある穴、かがんで覗く穴の中、大きいような小さいような穴、どういうことかというと、頭は入りそうだったが、全身を入れて通れるほどの大きさがあるのかはわからない穴、というよりは円。微妙な大きさの円。奥を覗き込む母と私。長く奥まで続く円。壁を貫く縁の円。その後ろに控える円。さらにその後ろにも何億回も連なる真円。
それらのうちの一つ一つが闇となり、吸い寄せられる私。ひどく怯えていた母と私。これからがわからない二人。何が起こるのかわからない二人。恐ろしい二人。しかし穴の奥に見える小さな光。縁よりも途方もなく小さな光。先には何があるのかもわからない光。
母は私を安心させようと一度抱きしめ、それから穴に手をかけた。海に潜るような深呼吸。頭と手から消えていく。母、身をよじらせながら入っていった。
一見、うまくいっているような目論見。だが、すぐに悲鳴。飛び上がる私。悲鳴は続いて二回、三回。穴に入りきらない両足。母の生。悲鳴と動く脚。ただそれを見つめる私。
やがて止まる悲鳴。止まる脚。しずかな母。閉ざされる穴。見えない光。満たされる円。今度は私の番。震える私。しかし何も起こらない部屋。経過する時間。睡魔に襲われる私。落ちそうになる私。眠ったところで気づく私。これも全くの作り話で、全てが嘘で、全てが物語だ。……ということに気づく。母は今も五体満足で毎週水曜日にヨガの教室にも通っている。それよりも、安直に死がもたらされるとにかく稚拙な物語だ。死は骨までしゃぶりつくされ、誰も驚かなくなっている。いつだれがどこでどんな風に死んでも誰も驚きやしない。誰もが死の片鱗に麻痺している、悪い物語だ。エログロナンセンスの類を私は助長させてはいけない。悪い物語や安い死の断片はすぐに忘れ去るように努力する。……けれどたまに魔が差す私、誰かを傷つけたくて仕方のない時もある。
d
アパートの廊下を丁寧に掃除をしている清掃員は最近新しくやってきた、まだ二十代前半ぐらいの、若い女の子だ。退屈な仕事の日々の唯一の楽しみは、その女の子しかいない。なんと言っても健気で応援したくなるナリをしているのだ。女の子は気弱で暗い雰囲気で、よく年上の清掃のおばさんにいびられたり、叱られたりしていた。その横を私は通っていつも仕事場へ向かっている。私は心の中で応援することしかしない。できない。しかしその日はすれ違った後、すぐにもう一度すれ違った。一週間ほど、作業の都合で遠出する必要があったのだ。使う道具だけを揃えて部屋を後にする。清掃されかけた道をずけずけと歩き去る。
e
しかし残念ながら、この遠出について語れる事は何もない。恐ろしいほどに物事は順調に行われ、恐ろしいほど何もない、つまらないものだったからだ。温泉宿に泊まり、出立の前夜に土産を探した。その宿の売店も信じられないほどつまらないものだった。特産品もなく、まんじゅうに地名がプリントされた、どこにでもありそうな菓子しか置いてなかった。仕方がないので、駅前のうさんくさい屋台で売っていたせんべいを買った。かろうじて語れるのはそのことだけだ。残念だけれど、これは作り話ではなく実話で、つまらないことだけがやたらと事実として起こっている。