回顧展は二通の手紙の展示から始まる。その手紙はおよそ五十年ほど前、ソルボンヌの古アパートに泊まっていたイワンの元に届いた手紙だ。
最初に開いたのは父親からの手紙だった。内容は至って簡潔だった。お前を見放し、縁を切った、もう二度と家には戻ってくるなということだった。血縁者とは思えないほど冷たく無感情で、何も感じられない文章だった。
イワンは父親の文字をじっと見て、それを頭の中で反芻してから、テーブルに置いた。それから二通目に取り掛かった。ペーパーナイフを持つ手が、微かに震えているのがイワンには感じ取れた。自分の手なのに、まるで自分の手ではないかのようだ。
二通目はソ連当局からで、事務的な手紙だった。我々は何度も帰国命令をし、警告もした。しかしそれは一度も受諾されず、お前は命令に背いた。なので永住権を剥奪し、ブラックリストに乗った。お前はもう二度と祖国の地を踏むことは許されない。そんな内容だった。
イワンはタイプされた文字を見て、頭の中で反芻してからテーブルに置いた。
ここに二通の手紙が置いてある。じっとイワンはその二つを見比べた。感情を読み取れない冷たい手書き文字と、これまた感情を読み取れないタイプされた文字だ。これはイワンに宛てられた手紙だ。つまり、この無表情はイワンに向けられたまなざしだった。
ため息をついて、飲み物を取るために立ち上がると自分の服がとても湿っているのに気づいた。いつの間にか鼻血を出していたのだ。いつからだ?気づいたら床は血だまりができていた。手紙の前で、いつの間にか時間が過ぎていたようだった。
しかたなく、イワンは書斎のテーブルに腰掛け、その流れで仰向けになった。血が鼻から喉へ、逆流していくのを感じた。鼻を押さえようとした両手は、気づくと鼻を通り過ぎて、両目を覆っていた。
涙は出なかった。しかし震えが止まらなかった。
なんてことのないはずだった。それは全てイワンが自分自身で選んだことで、こうなることは容易に想像できることだった。それでも震えが止まらなかった。何を見ているのか、どこに足をつけているのかもわからない。ただ目を覆って震えながら、血が身体の中へ逆流していくのを感じた。
もう私は祖国に帰ることができない。そして帰る家もないのだ。私が家を出て、国を出て、言いつけを背き、全て自分で決めたことだ。けれど……なぜだ?旅はいつか終わるものだと思っていた。帰る場所はあるものだと思っていた。しかしそれは生ぬるい考えだった。イワンは自分に言い聞かせた。自分の選んだことを受け入れろ!旅は終わることはないし、帰る場所はないのだ。私は本当に一人で、居場所はもうなくなったのだ。
自分で始めた旅は、自分で続け、自分で終わらせなければならない。当たり前のことだろう?なぜそれを頭で分かりきっているのに、この身体は震えが止まらない?
イワンは理性を取り戻そうと、旅の原点を思い出そうとした。そう、そこにあるのも、確かにこれに近い絶望だった。だからこそ作ろうとしたのだ。この震えは肉体の震えであり、あるいは魂の震えでもあった。絶望の先に救済がなくてはならないのだ。私はそれを強く求め続けなければならない。自ら作らなければならない。たとえ一人になり、帰る場所がなくなっても。
魂が激しく震えている。血が己の肉体の奥底に逆流していく。それと入れ替わりに、熱いものが込み上げてきた。たとえ受け入れがたくても、私はこの震えを感じていよう。旅をしている間ずっと。