リビングテーブルに飾られた花瓶の中のレタスを見て、
「なんだこれは」
と言ったのは浦田だった。
「ドラマの受け売りです」
と楽しげに峰子は答える。
峰子は掃除機をかけるのにいそしんでいた。大きな音の中でも、峰子が何やら口ずさんでいるのが聞こえる。浦田は納得できないまま、レタスに視線を向けていた。
四十の後半になってから、浦田はずっと勤めていた会社を辞めた。
ちょうどよい機会ですし、しばらく休んだらいかがですか、という峰子の提案から、無職生活を始めてから二週間ほどたった。平日の昼間に家にいると、結婚したての頃とは峰子の生活様式が変わり果てていることに浦田は驚いていた。
なんだこれは、と浦田が尋ねるたびに、峰子は笑顔で応じた。別にいいじゃないですか。と言うような、全く悪意を感じさせない笑顔で。浦田から見た峰子にはそういう、ちょっぴり世間知らずな部分が少なからずあった。
別に害があるわけじゃないじゃないですか?ほら、これぐらいの小ささの椅子のほうが、使いやすい時だってあるんです。この鳥のオブジェなんかは、人が通るたびに鳴くのが可愛いんです。この前のカーペットはだいぶくたびれてきてしまったので買い換えたんです。
働いていた時分は気にならなかったものが、家にいりびたるようになってから浦田は目ざとく気になるようになった。しかし今までも家の中のことは峰子に任せていたので、取り立てて何か苦言を呈せるわけでもなく、結局好きなようにやらせている。ただ、確認だけはする。
昼食を食べている最中、咳払いをしてから峰子が箸を置いた。
何か頼み事があるときの峰子の癖だった。
「明日、電気屋さんに行きませんか?オーディオを買いたいんです」
「お前がオーディオとは、どういう風の吹き回しなんだ」
「三日後、ラジオドラマの最終回があるんです。せっかくだから良い音で聴きたいじゃないですか」
「ドラマなんか、今はネットでいくらでも見れるだろう」
「ラジオでしかやっていないからラジオドラマなんですよ」
浦田が腑に落ちなかったのは、かつての峰子はテレビのニュースしか見なかったからだった。この峰子の変化はどこからやってきたものなのか、思い返すと一人の女が浮かんだ。
幼い頃から浦田は弟と仲が悪かったが、それぞれが結婚をしてからも改善することはなかった。弟はなれなれしい性格で、よく身内に金をせびっていた。いい年をした大人なのに、少年のような笑顔を振りまいて達者な口を回してあたりかまわず媚びていた。親戚のあつまりがあるたびに弟は生き生きと良い顔を使って懐に入っていたが、浦田は一人で部屋の隅で酒を飲みながら、なるべく弟からは距離を置いていた。皆が皆、弟のもとに集まって楽しげにしゃべっていたが、もう一人、自分以外にも弟に対して良い顔をしていない人物がいたのを浦田は見逃さなかった。それが弟の一人娘である時子だった。彼女もなるべく弟に近寄らないように注意を払っていることを伺えたが、浦田と時子は顔を合わせれば会釈をする程度の関係で、それきりだった。
弟の媚び売りが激化したのは五年ほど前からだったか、浦田の休みの日の昼過ぎに、浦田の家へわざわざ来訪するほどになった。峰子はあらいらっしゃいと言って、すんなりと弟を家にあげたが、それを追い払うのが浦田の役目だった。何度追い払っても、弟は毎週欠かさずに昼の二時過ぎに現れた。ドアのチャイムの音を聞くだけで、なんとなくそれが弟だとわかるようになるほど、浦田は過敏になっていた。
しかしある日、扉の前にいたのは弟ではなく、時子だった。
彼女が言うには、家出をしたのでしばらく泊まらせてほしい、とのことだった。峰子はまたしても喜んで家にあげた。
元々一人娘として育ち、結婚してからも子を持たなかった峰子は、家に若い女の子がいることがとにかくうれしいらしく、よく喋り、時子と二人で過ごす時間が多くなった。時子はテレビドラマが好きで、それに釣られて峰子はドラマの面白さを知ったのだろう。
浦田は特に何も言わなかった。いつまでたっても弟から連絡はなく、時子が帰るきざしもなかった。
いつかの日の夜、浦田を時子が誘ってきた。浦田が書斎のパソコンで仕事をしていると、突然後ろから腕を回され、時子は胸元を背中に押し付けてきた。何が起こっているのか分からずに、硬直していると、時子は制服のボタンを外しはじめ、それから浦田の服にも手を伸ばし始めた。そこで浦田は腕を振り払って立ち上がり、書斎に時子を残して扉を閉め、峰子のいる寝室に向かった。
峰子は本を読んでいた。
「どうかしたんですか?」
何かを言おうとして迷ったが、結局やめた。
「なんでもない」
次の日に何も言わずに時子は荷物をまとめて去っていった。
それから弟も時子も、家にも来なくなった。連絡も途絶えた。親戚の集まりにも来なくなった。時子がいなくなった後も、峰子はドラマを見続けていたのだろうか。