見上げると洗面台の下が汚れていた。緩くカーブしたふくらみのてっぺんに横一直線、カビが生えていた。歯磨き中に垂れたよだれを拭い、ふと見上げなければ良かったのに。
なにか探してるの、と背中越しに母親の声が聞こえた。ソナンは別に、なにも、とぶっきらぼうに答える。かがんでいたから、どうやら洗面台の下の収納を見ていると思われたようだった。そう、たしかになにも見ちゃいなかった。ただ、見たくもないものが見えただけだった。そんなところを見られてた。それがソナンには無性に許せない。
特になにもない土曜の昼に一人、ソナンはビデオカメラを持って出かけた。丘を登って川を見下ろす。その先に向こう岸。高台。もっと先には高層ビルがいくつも立っている。撮りたいものがなにかあるわけではなかった。けれどなにか撮りたい気持ちがあった。なんでもよかった。とりあえずソナンはカメラを構えてボタンを押した。起動音。
まずは川が流れる風景にピントを合わせた。川に反射する光に目が焼けてきたら、カメラを少しずつ上げて、ビル群をフレームの中心に据えた。ピントをそれに合わせる。ビルは動かない。ただそこに直立している姿をずっと撮った。なにも変わらないフレーム内。雲ひとつない、晴れた日だったから、なにも動かなかった。川のせせらぎの音だけが入ってくる。そこで撮影を止めた。撮った映像を確かめずに、カメラを向けた方向を見つめたまま、ソナンは立ちつくしていた。カメラがなくても同じ風景がそこに広がっている。
ソナンは自分が今までのやり方に飽きてしまったことに気づいている。目に見えるものじゃなく、目に見えないものをカメラで撮りたいと思った。けど、どうやって?ソナンにはわからない。それでも、だからこそ、目に見えないものを撮りたいと考える。ビルを見つめたまま。
撮影者ではなく、被写体としてカメラの前に立つと、ソナンはいつも自分が自分じゃなくなるような気分になった。なんとなくセリフを頭の中でなぞって、格好悪くならないように、シャツのシワを伸ばしてみたりする。それでも万全じゃなかったようで、ユミが立ち上がって彼の方へやってきた。
「歩き方が変だ」そう言って、ユミはソナンの脚をとった。
「靴紐が強く結びすぎだね」
「そんなはずないよ。いつも通り。結んでるはずだ」ちょっと緊張して、ソナンはユミの方を見る。
「ちょっと緩めてあげる。この靴は硬いからなおさら」ユミは靴紐をほどいてゆるめた。ユミが靴紐を結んでる間、ソナンはなにをすればいいのかわからず、ただじっと待った。ソナンはユミのうなじあたりに視線を落とす。小さく束ねてある髪のその下に、うっすら輝いている首がある。
ソナンは納得いかなかった。彼にとっては、本当に、いつも通り靴紐を結んだつもりだった。なのに靴紐を結び直されてる。少し焦りのような不安のような気持ちが湧いた。なんだか悪いことをしたような、そんな気持ちだ。じっと待った。かと思いきや、ユミが突然立ち上がったのでキョトンとした。結び終えたことに気づかなかったぐらい、靴紐はいつもよりかなり緩く結ばれていた。その場で少し足踏みをしてみた。いつもよりは不安定だった。けれど、脱げることはなさそうだった。
ソナンはなにか恐ろしい発見をしてしまったような気がした。ソナンのそんな衝撃を、ユミは気づきもせずにカメラの前の椅子に戻った。
「これでもう大丈夫。始めよう」その一言で制作モードに戻った。意識を新たにして、ソナンはカメラの前に立って、レンズを見つめた。カメラの少し後ろにユミの目があったが、今はカメラだけに集中した。カメラの起動音が鳴ると、ソナンはユミに与えられたセリフと動作を繰り返す。
今度はソナンの映像の撮影だった。再び放課後の教室で、ユミはカメラを起動した。教卓に肘を固定して、カメラで机を見下ろす。
机の上にいくつかのモノを並べる。ロッカーの上に置いてあった誰のものかわからない、ちょっとだけ角のとれた消しゴム。クラスに置いてある水槽の金魚のエサ瓶。友人にもらった定規、私物のカッター。それらを机の真ん中、横一列、等間隔に丁寧に。それからソナンは椅子に座って机に向かい合った。