novel

口辺に密

回晩行

収録

刊行

8

ページ

4170

  • 1st短編集-回晩行

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    一

 始めに結論づけておく。

「言葉なんて本当はどうでもいいんだよ」彼は彼女の顔を直視できずに、声だけに注意深く意識を張っていた。けれど彼女の表情は然として穏やかなものだった。

「言葉が無ければ嘘も無い」

 彼は本当にそうなのだろうか、と考えてみたりする。けれどそれを口にすることはできない。堤防の表面には錆びた釘が飛び出していた。知らぬ人の茶目っ気なのか欠陥か、わからず彼女はそれを左手の人差し指と中指でつまんだり、ひっぱったりして、無造作に遊んでいた。

 釘だけでなく、潮風もそこに、ある。潮風はありとあらゆる全てのものをかまわずに朽ちさせていっている。少しずつ朽ちていることに気づいていない二人だけが堤防の上に腰掛けて対話をしている。

「全ての言葉に嘘はあるし、それが本当に本当だってことは誰も分かりっこないね」彼女の言葉は順を追ってつまびらかになっていく。開示されるたびに彼の沈黙は重なり、思考はさまよう。彼女が言葉を向けているのは閉ざした彼なのか、潮風か、それさえも疑わしい。次の言葉が開かれるまでにかなりの時間があった。彼の焦燥がつのっていく。彼はその間に、何かを言葉にしようとしては淀んで閉ざし、口を開く挙動のたびに潮風が乾かし去っていくだけだった。

 二人の頭上は灰色の雲で覆われ、海の向こうには黒い雨雲が漂っている。彼が言葉を思いつくより先に彼女が終わらせた。

「今日はもう帰ろう。来週もこの時間この場所で待ってる。また会おう」

 来週が来るまでの毎日、布団に入り寝付く前に彼は彼女のことを考えた。言葉の一つ一つを思い出し考えた。その一つ一つが彼の胸のうちを微かに波立たせ、えも言えぬ暗雲とした気持ちが沸いた。言葉の一つ一つをたぐるようにつかんでいけば、舌体に触れることができると思ってた。しかし考えれば考えるほど、それが根本からの勘違いであるような気になった。彼女の言葉は雨上がりの土くれのように触れた途端にほころんでくずれてしまう。言葉は砂となり、砂は潮風を呼び、潮風は彼をつらぬいて寂寞を残す。つらぬかれるたびに彼はちょっとずつ朽ちていく。

 眠ろうと目を閉じても考えはやめられなかった。ぜんぶは彼女の言葉のせいだった。彼は考え続けた。潮風のように全てを朽ちさせていく言葉の数々。寝付くまでにどれぐらいの時間が費やされただろう。

 一週間後。同じ時間同じ場所に彼女はいた。彼も来た。前の週ほど天気は悪くない。

「この一週間、君の言葉のことを考えてたよ」

「どれぐらい?」

「考える前の自分を思出せないぐらい」彼は見違えるように疲弊していた。両手を所在なさげに組んで、両足を堤防の向こう側へ垂らし、背骨を丸めて伏し目がちになっている。彼女は何も変わらぬ様子であいかわらず手で釘をいじり、もう一方の手で頬杖なんてつきながら、横目で彼の様子を伺っている。

 「この一週間、君に何か残したいと思った。私は、ね」彼女は海に言葉を放るように言う。彼は既にいっぱいいっぱいになっている。彼女とのこれまでを思い馳せると、彼女から与えられてばかりだったので、彼は既にいっぱいいっぱいだったのだ。これから先、彼から彼女に、何かを与えられることはあるだろうかと考えた。

 「私も私なりに、あれこれ考えたのさ」風は止まない。荒れた手触りであおるように二人をかすめていき、陸のうちへ溶けていく。

 「それで決めた。これから君に私の秘密を一つ、伝えて伝えてあげよう」

「秘密?」

「ただの秘密じゃない。とびっきりの秘密ね。ママにも知られてないぐらいのすごいやつ」彼は微動だにしない。その風貌で彼女に次の言葉を促す。

「秘密はワイザツでもないしインサンでもない、けれど確かに私の生身だし、誰にも話したことがない。長い間。というかずっと。」彼の沈黙は続く。

「一つ、気がかりなのは、私の秘密を君が知りたいか、ってことなんだけどね」

「君は私に秘密を言って欲しいの?」彼はその場で答えられない。

「また来週会おう。その時に君の言葉を聴かせてほしいね」

 また一週間彼は考えた。しかしいくら考えども、答えは出なかった。今や、彼女の言葉は咀嚼する前に崩れていくのだ。考えれば考えるほど、彼の思惑は飽和し、沈み溺れていった。焦れば焦るほど重心の所在を失くし、気づいた時には、深いところにいる。

 彼がすがりつけるものは目に見えるものしかない。陸を囲う堤防。堤防から出る錆びた釘。釘から伸びる彼女の指々。指々が収束して一つになる腕と皮膚。皮膚を覆う白いシンプルなシャツ。シャツからのぞく骨のふくらみ。骨の膨らみが描くくぼみ。くぼみが支える端正な顔。顔の表面で最も美しい目。彼を射す目。生まれてから今に至るまで、多くの色をまなざして、言葉をみつめてきた目。小さな部屋の狭い狭い布団の上で、彼は妄想の目にすがりついている。

 彼女の言葉で彼のすべてがすさみ、潮風はこの小さな部屋にも届く。目に見えるものがすべてで、確かだ。崩れ落ちそうな彼は、いつもの堤防のことを想った。あそこでは、彼の足は何ものも踏みしめていなかったが、無機質なコンクリートの堤防が彼を支えてくれていた。腰を浮かせば、海へ飛んでいくことだってできたのだ。しかしそれらの可能性のすべてを、彼はやらなかった。その時に、思いつきもしなかった。後悔がかさましていく。数日前が何百年も遠くに感じられる。彼女の言葉が古代の記憶のように思出される。

 堤防を思い起こしても、おぼろげでしかなかった。やはり目に見えるものがすべてなのだ。

dehaze