novel

盛り場は海

至暗面呼

収録

刊行

28

ページ

12486

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  • 2nd短編集-至暗面呼

 この峠を越えれば、視界が開けるはずだった。俺は一人で歩いていることに気づいて振り向くと、つぐみは屈んで靴を片方脱いでいた。それをひっくり返すと小さい石ころがころがり出てきた。音を立てて落ちた。一瞬、つぐみが俺を見上げてから、靴を履き直した。

 つぐみが靴ヒモを結び直している間に、俺は近づいていった。俺は彼女の靴下についているレースに視線を落とす。つぐみの手は震えていた。気を緩めると、潮の匂いがした。

 この道を歩くときはいつも、つぐみはこのあたりの場所で立ち止まった。なにかしらの理由をつけて、先に行きたがらない。俺は無理にここから先へ押し進めようとしない。つぐみに何度か声をかけるが、返事はない。つぐみは黙ってしゃがみ込んだままだ。靴ヒモはもうとっくに結ばれていて、所在なさげに両手の指を絡ませていた。俺は無理矢理手を取って、帰宅を促した。つぐみはされるがままにされ、手をとられたまま来た道を引き返した。

 つぐみはとても怯えていた。俺は彼女が何に怯えているのかわからない。何かを感じ取ろうとして、集中するがなにもない。つぐみは俺の服の裾を握りしめ、なにも知らない子供のようにぴったり寄り添って怯えている。彼女が家につけるように、俺は砂利道を引き返す。小道は踏み慣らされ、松の木がそれを避けるようにまばらに並んで植わっている。見晴らしのいい小道だった。横を向けばすぐその向こうの道まで見える。本当になにも、怯えるものなどないのだ。

 つぐみは言葉にならないうめき声を漏らす。風に溶けてすぐに忘れ去られそうな声だった。彼女はなにが怖くて、なにを伝えたいのか、わからなかったが、彼女は一人で、確かになにかをずっと外へ呼びかけている。彼女の手からそう感じる。

 一ヶ月ほど前、俺が祖母の家に戻ってきた時には、つぐみはすでに言葉を失い、虚に発狂していた。呆然と立ちつくす俺をよそに、祖母はお気に入りの帽子を脇に置いて、手慣れた仕草でつぐみを抱きしめてなだめた。外では庭師がレモンを収穫していた。つぐみは言葉ではない音を発している。

 「病気に名前なんてねえら。この子は言葉を忘れちまっただけさ。それよか、お前はなんで五年間もまったく顔を出さなかった」祖母に言われると俺はなにも言い返せない。

 つぐみは俺の従姉妹で、物心ついた頃には両親は蒸発していて、ずっと祖母と二人で生活していた。俺の父も小さい頃からいなくなっていて、母親に一人でずっと育てられてきた。母親が忙しい時は祖母の家に連れられて、つぐみと遊んでいた。俺が高校生の時に母親が亡くなり、俺は祖母の家に行かなくなった。その間、つぐみはなんの前触れもなしに言葉がわからなくなっていたようだった。話すことも書くことも聞くこと読むこともできなくなっていた。

 つぐみは時折、口から音を発するが、それが言葉になることはない。鳴き声のような、うめきごえだけが口から漏れる。筆記用具を手に取っても、そこで描かれるものは文字にすらならない。紙の上に描かれる流線と紋様を手に取るたびに、二十歳の従兄弟が本当に言葉をなくしてしまったのだと実感する。

 祖母は病院が大嫌いで、つぐみを頑なに病院に連れて行きたがらなかった。

「診断するから病気ができるのや。名前があるから怖がるのや。そんなものいらんやろうに。名前をつけずに、自分の力でなおすしかなかろ」

 坂道の中腹にあるこの家には時折、潮風や波の音が流れてやってくる。すると、つぐみは耳を塞いで、言葉ではない叫び声を発し始める。日が沈み、暗くなってくると、一層それは激しくなり、俺と祖母でつぐみをなだめて、寝付くのを待つしかなかった。部屋で暴れまわり、なにかに向かって叫ぶつぐみを、祖母は抱きしめて、子守唄を歌って、寝つかせた。祖母はそれがとてもうまかった。その時の俺は、ただそれを見つめることしかできずにいた。

 一回お前もやってみろと、ぐずっているつぐみを胸に祖母は言う。俺はつぐみを抱きしめてみる。首元につぐみの息遣いや涙を感じる、俺はかけるべき言葉がわからない。言葉をかけたところで、つぐみはなにもわからないのだ。そして、俺は幼い頃からつぐみとなにを話していたのか、忘れてしまっていることに気づいた。忘れてしまった俺は、とりあえず背中を撫でてみる。すると、つぐみの身体はかすかに揺らいで、身を一瞬固めるが、すぐに脱力する。そのまま背中を撫でてみる。つぐみはえづきを繰り返しながらも、少しずつ俺に身体を任せていった。今度は頭を撫でてみた。つぐみの髪の柔らかな感触を感じていると、頭頂部の方になにか違和感があった。指をそこで止めて、髪を掻き上げてみて、直線的な古い傷跡を見つけた。俺は髪に触れていたことも、つぐみをなだめていることも忘れて、その傷跡の意味を考えた。つぐみが俺の手を払い除けて、縫い跡が隠れた。彼女は立ち上がって、自分の布団の中に潜った。それから再び家が静かになった。静かになってようやく、家の中にさざなみの音が風に乗って忍び込んでいたことに気づく。つぐみが寝付くのを見届けてから、俺も布団に戻った。つぐみを宥めた後、俺は決まって眠れなくなっている。布団の中で冴えた頭は、祖母の言葉を思い出している。

「お前はなんで五年間も、一度も顔を出さなかった」

dehaze