今
紐で口を縛り、しっかり結び、余剰をペンチで切ると、土嚢は音を立てて倒れる。それを土嚢の壁の上に積み上げる。それからまたスコップを土に突き立てる。麻袋の口を広げて、スコップで土を入れる。一掻き、二掻き、三掻きほどで土嚢が出来上がる。紐を引っ張り、口を縛って結び、余った部分をペンチで切る。土嚢が音を立てて倒れる。サオが見ているところまで音が聞こえてくるようだった。
男は毎晩十一時過ぎに海岸で土嚢の壁を作っている。壁の高さは二メートル近く、横幅は四メートルほど。なんのために?あんなちっぽけな土嚢の壁では、なにも防ぐことはできない。けれど男は何かを信じているような表情でずっと作業をしていた。サオはそれを海岸から離れた堤防の上で見ていた。まるでこれからここで戦争をするために土嚢を積み上げているみたいだとサオは思った。
それを祈りのようにも捉えたサオは、見るんじゃなかったと罪悪感があったが、けれども視線をそらせなかった。それほど、男のその行為はとても個人的な行為であるように見えた。おごそかに、焦ることなく一つ一つ丁寧に土嚢を積み上げていた。静かに一定の間隔でやってくる波の音の間に、男が作業する音がサオにも聞こえた。
そんなことをイドに話した。窓辺でラジオを聴いていたイドは、ゆっくりこちらを向いて、探るような目をした。
「君にはわからないだろうね」それでちょっと戸惑ったサオ。
「それじゃあ、あなたにはわかるの?」
「俺にもわからない。けど君がその人のことを軽く見てるってことはわかる」そう言ってイドは窓辺に視線を戻した。カセットからはデリダの朗読が流れてる。それをイドは窓辺を見ながら聞き入ってる。
イドは字が読めない。だから朗読テープを好む。それを聞くとき、イドは決まってナナメ下のほう、窓辺の隅に目を向ける。時折、本を読むときの姿勢を探るみたいに首を動かして、頭の居所を変えたりするが、いつもその定位置に戻る。サオはそれを見るのが好きだった。
一定のものには特有の恐怖がある。例えば秒針。過去にも寄らず、未来にも寄らず、神殿の柱のように一定を保つことの恐ろしさ。イドには波があり、恐怖が目覚めることがある。そうすると、どうしようもなく気分が沈んでしまう。今はその時だと、サオはなんとなく感じて黙る。イドが浮上する時を黙って待った。
次の日は二人で男を見にいった。サオが指し示して、イドが双眼鏡で見た。しばらく見てから、イドが双眼鏡を返した。サオが双眼鏡で覗くと、男と目があった。
こちらを見ていたが、サオは目が離せなかった。男のまなざしは、何の感情もメッセージも含んでなかったが、他者に開かれ、底の見えない深みがあることだけは伝わった。それからイドはまた双眼鏡で男を見た。男と、その背後にある土嚢の壁、さらにその後ろにある水平線。イドはなにを見ているのか、ずっと動かない。やがて男が再び作業を始めた。イドはじっと見続ける。サオも隣でずっと男を見ていた。
男の周りには人が寄り付かなかった。海水浴場として開放された海岸だ。みんな思い思いのことをして海と触れ合っている。けれど男と土嚢の壁には誰も近づこうとしなかった。サオには、その壁が何かを断絶する壁のように見えた。男の作業は夕方まで続いた。
その晩、ラジオのニュースでは奇妙なニュースがあった。世界のあちこちで土嚢の壁を無作為に積み上げる人々が現れた。にわかには信じがたいニュースだったが、サオには信じられた。彼女のコテージのすぐ脇の海岸にその男がいるから。イドはそのニュースにじっと耳を傾けた。サオが窓の外へ視線を向けると、海岸で土嚢を作る男がいた。作業を再開したのだろう。
サオは時折、自分が女であることが嫌になる。それを誰にも言えずにいる。その他にも、誰にも言えないことがたくさんある。イドの横顔を見て考える。イドにとっての誰にも言えないことを、私はどれだけ知ってるだろう?他人の言葉に耳を傾けることが得意なイドは、とても口が硬そうに見える。
次の日、イドの調子が悪かったので、サオは一人で海へ行った。やはり男が土嚢を作っては積み上げを繰り返していた。男に近づく者は誰もいなかったが、サオは近づいていった。男はサオの姿を見ると手を止めて微笑んだ。不思議な微笑みだ。親しみの類を一切感じない。けれど確かに万人に開かれている、海のような微笑み。
「なにをしているの」サオは尋ねた。
「ずっと探している」男は答えた。
「なにを?」
「海の奥にいる連中をね」
「それは……誰?あなたは救助隊?」
「そんなのと一緒にしないでくれ。俺は俺の全身で連中の呼び声を聞こうとしてるんだ。これはそのための儀礼」
「連中って?」
「連中はいつも暗いところから呼びかけてくる。暗いからどこにいるのかもわからない。まんなかなのか、隅っこなのか、上なのか底なのか……でも決まっていつも暗いところだ」男は淡々と、しっかりと答えた。けれどサオにはさっぱりわからなかった。
「それで……見つけられるの、連中は?」
「見つけられるよ。いろんなところで。海面にね、目を凝らせばいるんだ。君もあるはずだろう」
「なにが」
「どこかに暗い面がある。今も揺らいでいる、暗い面」サオはちょっと愛想笑いした。
潮を探る犬のように男は空を見上げた。とても真剣な眼差しだった。でもサオにはやっぱりわからなかった。そいつが何になるってのさ?何も防げやしないのに、バカみたいだ……。男はあちこちに座礁するように旅をしているようだった。しばらくここにいると言って、男は作業に戻った。
家に戻ると、イドは寝室で静かにうなだれていた。何もせずただじっと、頭をかしげて斜め下を向いている。どこかから秒針の音がする。サオは荷物を部屋の隅に置いて、イドの横に腰掛けた。そっとイドの背中を撫でながら、部屋を見渡した。床や、本棚のあちこちに楽譜の山の数々。それの一つ一つに置いてある中ぐらいの石。楽譜が窓からの風に飛ばされないように置いてある石だ。どれだけ寒くても、飛ばされそうになっても、窓は開けておかないといけない。それはイドにとって必要なことだった。
イドはゲルインクで楽譜を書く。それを私は眺める。音符の連なりと記号。記号はアルファベットのはずなのに、イドはそれを書ける。けれどそれを文字として読めているのかどうかはわからない。アルファベットとしてでなく、記号として認識しているのだ。おそらく。何年もかけて作ってきた楽譜の山は、今はもう増えることはない。旋律の流れなくなったイドの頭は、少しずつ活動を停止しつつあった。私はそっと寄り添うことしかできない。あとは窓を開けることしか。旋律が聞こえなくても、部屋の空気を入れ替えことはやめなかった。何はともあれ、風を感じることをやめてはいけない。
タイトなバンドのリズムのように反復している記憶がイドにはある。イドはその日、路面電車に楽譜を忘れた。連絡をして車庫まで取りに行った。運転手はとても不機嫌で、いかにも急いで切羽詰まった様子のイドを嘲笑い、苛立ちながら車庫まで連れていった。いくつもの路面電車が眠っている車庫の中、一つ一つのナンバープレートを確認しながら奥に入っていった。イドはとにかく急いでほしかったが、運転手は焦らすように悠々と歩いていった。やがて目当ての車両を見つけた運転手は中に入って、座席を確認した。車両の前で待つイドは、とても神経質になった。ここになかったらどうしよう?誰かに盗られていたら?別の場所に忘れていたら?そう考えるだけでイドは頭がおかしそうになる。
そんな杞憂も束の間、運転手が楽譜の束を持って出てきた。イドは泣きそうになる程安心した。だが運転手はまた嘲笑った。こんなものなんになるのさ?ただのゴミじゃないか!ここにゴミ捨てるなよ!奪うように楽譜をひったくって、イドは車庫を出ていった。
車庫から出る路面電車は、例の運転手が運転していた。二人で顔を合わせると、イドは顔をしかめて、運転手は眉を上げた。そのまま奥の座席に座って、目を閉じた。もう一度目を開けた頃には、目的地の目の前だった。慌ててイドは席を立つが、満員の車両をかき分けて出なければいけなかった。運賃を出そうとするが小銭がない、仕方なく札を出すが両替ができないと言い、ニヤニヤと笑って突き放す運転手。舌打ちしてそのまま札を押し付けるイド。楽譜を片手にバスを降りた。
そこから先は、とにかくオフィスへ向かうことしか考えていなかった。車両の前の路面をすぐに駆け出した。ロングコートをなびかせて、視界に映らない石を蹴飛ばして、駆けていった。その時の意識や視界が、異様にスローモーションになっているのをイドは覚えている。自分とは思えないようなすごいスピードで走っていた。コートが風に煽られる。後ろからつんざく異音が聞こえて、それから爆発するような音がした。スローでそちらを振り返ると、車両が横転していた。煙が上がって、周囲から悲鳴が聞こえた。それでもイドは走り続け、そのうちに、見た時は意識していなかったが、確かに見逃せずにこびりついていたものが浮かび上がってきた。路面のレールにはまった石が一つ。それからイドは自分がどこに行ったか、楽譜がどうなったか、まったく思い出せない。
反復している記憶がサオにもある。サオが海から車で戻ってくると、妙な胸騒ぎがした。いつもの帰り道もどこか不穏で、何か見落としているものがないか恐る恐る探るように慎重に運転した。やがて家の門が見えてきて、右折して入ると、家の前にイドがいるのが見えた。屈んでいた。なにをしているんだろう?まるですべてのものがゆっくりと動いているように見えた。そのままイドの横を通過して、車庫に入ろうとすると、家の脇の手洗い場が視界に入ってきた。手洗い場は石ころの山で埋まっていた。それが見えた瞬間、なにかを察知して、サオはすぐにそこで停車して車から出た。すぐにイドに駆け寄ると、イドは動かなくなっていた。イドはただじっと屈んで、地面に転がる石を見つめていた。
そしてもう一つ。ある日、目が覚めると、サオは澱んでいるような空気を感じた。静かに体を起こして、寝室を出て、廊下の向こうを見た。視線の先にはイドの作業部屋がある。そちらへ進んでいくと、廊下の窓から入る光と風にくすぐられたが、それには少しも心を動かされず、ただ閉ざされた扉へ向かっていった。朝のような葉のさざめきと、風の音の隙間に、かすかに奇妙な音がする。何かを削るような音。その音をたどって、扉を開けた。
イドは部屋の床で倒れていた。えづくように痙攣しているのを見て、すぐにその部屋の窓を見やった。窓はすべて閉ざされていた。窓を開けるのを忘れていたのだ。急いで大きな窓をサオが開けると、新鮮な風はすぐになだれこんできて、サオとイドを通り抜けて部屋の中を駆け巡った。風に吹かれて、部屋中にあった楽譜がすべて舞い上がった。何が起こったのかわからず、サオが振り返ると、部屋中に楽譜がゆっくりとスローモーションのように舞っていた。さっきまで一定だった時間が、まるで引き伸ばされたかのように、風も楽譜もゆったりと流れている。イドはまだ床にうなだれていて、その周辺に石が散乱しているのにようやく気づくサオ。急いで駆け寄ると、イドは石を手に持っていた。サオは何かを踏んで、気づくと白い破片が落ちていた。イドは石を食べ、欠けた歯を撒き散らしてえづいていた。サオはすぐにイドの持っていた石を取り上げようとしたが、ものすごい力で掴んで離そうとせず、しっかり握っていた。イドは何も感じられないような表情で、無心で両手で石を抱えて口に運ぼうとする。サオがイドの口を見ると、もう既に歯がいくつも欠けているのが見えた。
それを見てサオはもう耐えられず、イドを抱きしめて泣き出した。それでようやくイドは石を食べる手を止めた。泣いている最中も、サオの頭の中には秒針が動き出している。一定に刻まれ続ける時間。サオが気づくと、楽譜はすべて床に落ちていた。イドは窓の向こうを見つめていた。そこからだと空しか見えないが、本当は海が見えるはずの窓だ。サオもイドと一緒に、窓の向こうを見つめた。何もなかったが、何かが見えてくるような気がした。風の音がする。その音にじっと二人で耳を澄ませる。
「もうこれだけを聴いていたい」イドが呟く。もう一度サオはイドを抱きしめる。二人とも屈むように頭を俯かせて、言い聞かせるようにサオは言う。
「ずっとここにいよう。私がずっとそばにいる。二人だけの秘密にしよう。誰にも言わないで。死ぬまで誰にも言わない秘密にしよう」その時のイドの表情を、サオはずっと忘れられない。
その夜、家に戻るとイドは消えていた。イドのものはすべて残っていた。イド本人だけがいなくなっていた。今度はサオが沈む番だった。イドがいなくなった理由がさっぱりわからなかった。サオはイドの聞いていたカセットを聞いてみる。何か掴めると思ったけど、やはりサオにはわからない。必死で考えて、心当たりのある人物全員に電話をかけたが、手がかりはなかった。
それから一週間ほどして、サオは男の言葉を思い出した。
「連中はいつも暗いところから呼びかけてくる。暗いからどこにいるのかもわからない。まんなかなのか、隅っこなのか、上なのか底なのか……でも決まっていつも暗いところだ」今こそ、男と話すべきなのだとサオは思った。ところがその日は海岸に男はいなかった。土嚢の壁だけがぽつんと取り残されていた。
何日も何日も待っていたが、男は一向に帰ってこなかった。そのまま日がいたずらに過ぎていって、サオはどんどん沈んでいった。
一ヶ月間ほど、毎日サオは男がいないか確認していたが、ある日突然、土嚢の壁がきれいさっぱり消え去ってしまっていた。サオはいつも確認している場所と間違えたのかと思って、砂浜を町から町へ歩き回って探したが、やっぱりどこにもなにも無い。きれいな砂浜と海。これが本来の海岸のはずだが、どことなく重要なものが欠けた風景になった気がした。
ラジオのニュースでは、世界中の海岸にあった土嚢の壁がすべて消えたことを告げていた。一つ残らず、一晩ですべて。彼らはどこに行ってしまったんだろう?
サオはイドのいくつもの表情を思い出す。特に、罪を二人で抱えようとした日、秘密にして二人で生きようとした日の表情を。イドは何も言わなかった。あの時の表情は、どんな表情だったんだろう?本当は何を思っていたんだろう?なぜ私に言ってくれなかったのか?そんな疑問に囚われるたびに、最後はこう考えるのが結末だった。私に声を聞く姿勢ができていなかったのだ。イドは何かを言おうとしていたのかもしれない。言葉じゃなくても、何かしらの形で発信して、呼びかけていたのかもしれない。しかし私はそれを拾うことができず、応える準備もできていなかったのだ。だからイドは何も言わないまま、言えないまま、いなくなってしまった。
もし仮にイドと再会できたとして、なにを話せばいいのか、なにを聞けばいいのかもわからなかった。サオは静かにイドが戻るのを待った。じっと耳を澄ませても、風の音、波の音しか聞こえない。どこかから、イドが声をあげているかもしれない。声でなくとも、何かで呼びかけているかもしれない。けれどサオには聞こえなかった。それがとても悲しい。とても遅くなってしまったけど、サオはイドの呼びかけに応える準備をするべきなのだと思った。
その晩、ふと目が覚めた。それから起き上がって土嚢を作り始めた。毎日、日が沈んだら家を出た。無心で土嚢を作った。そして日が昇る頃に、作業を中断して家に戻るのだ。それから眠りにつき、昼過ぎに起きた。そんな生活を送った。
サオは自分の中に、暗い部分が広がっていくのを感じた。とても冷たいけれど、確かにそれに支えられているような、暗い側面。土嚢の壁は一ヶ月ほどして、六メートル程の長さになった。誰もサオに近づかなくなったが、サオは土嚢の壁を作り続けた。
秋が終わって、冬になっても続けた。雪の日も続けた……が、限界が来ていた。とても風が冷たい夜だった。サオは手を止めて、土嚢の壁に寄りかかって腰を下ろした。なにも考えられない頭の中、ただ疲れだけが残っていた。目を閉じると、一瞬で眠りにつくことができた。
次に目を開くと、男が立っていた。とても久々だったので、サオは動揺した。コートとマフラーに顔を埋めて、こちらを見下ろしている。
「凍え死んでしまうよ」男はサオの隣に座って、タバコとライターを取り出した。 サオの周りは雪と風が吹き荒んでいたが、ライターの火は静かに揺らいでいた。火をつけたタバコを、男はサオに渡した。他のあらゆるものを断絶していると思っていた壁は、いつのまにかサオを守っていた。
「どこにいってたの?」
「遠いところ。きみはなにをしてた?」
「土嚢を積み上げてた。あなたのように」
「それはいい心掛けです。ここにはきっと人が集まってくる」
「どういうこと?」
「おのずと分かるだろう。これぐらいの大きさならもう大丈夫。毎晩この壁の前に来なさい。そうすればきっと自分がしたことがわかります。声を聞きたいのであれば、まず最初にあなたが受け入れる姿勢を常に持たなければいけない。あなたは準備ができた。連中の声を聞く準備を」断絶するために作った壁は、いつのまにか私を開いてくれていた。サオはそう感じる。
サオは男の言う通りにした。それから毎晩、土嚢の壁に人がぽつぽつ集まってきた。だいたい一日に三、四人ほどやってきた。土嚢の壁にやってくる連中は様々だった。映写技師をする盲目の女。堕胎手術をした母親。足指のない登山家。耳の聞こえなくなった営業職。絶滅危惧種の猿を死なせた飼育員。割礼させられた修道女。遺品を売り捌く墓守。三度の地震で三度家を無くした男。図書館五個分の本を捨てた司書。外来種を集めて育てる植物園の女。行方不明者を探すダイバー。弟を亡くしたシャム双生児。リヒターの絵画を汚した学芸員。危険区域で忘れ物を探す電力会社の職員。一人一人の語る体験や記憶に耳を傾けた。イドも連中の一人になったのだろうかとサオは考える。
サオはその連中と一緒に壁にもたれかかって、一人ずつ順番に話をしていった。一人が話している最中、他の連中はそれに耳を傾けた。サオはいつも、自分の順番が来ると何も話せなくなってしまう。それまでは全然平気で、挨拶も世間話もできるのだけれど、自分のことを話すとなると、言葉が詰まり、思考が止まってしまう。何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
そういう時は男が助け舟を出した。何も話せない代わりに、五分間静かに皆で沈黙する時間をとった。サオにはそれがありがたかった。何も話さない沈黙の時間に、サオはある時はじっと海を見つめたり、ある時は目を閉じて波の音に集中して、いつかやってくる言葉を静かに待った。よく耳を澄ませて聴いてみると、一定に思える波の音も、揺らぎがある。秒針のような一定のリズムではない、曖昧な海の音でサオの感情も思考も澄んでいく。
サオはずっとイドのことを思い続けた。目を凝らして……目を凝らしても見えないかもしれない。それでも目を凝らそうと思った。光を感知しないまなざしで暗がりを見つめ返し、音を拾わない耳で言葉になれない声を聴き、消化しない口に含み、感知しない鼻で嗅ぎ分け、回路の通じない頭で言葉を受け止め、触覚を失った指で探る。決まって連中は深海の底、暗がりの中にいる。
揺らぐ面を見つめていたサオは、いつの間にか自分自身も揺らぐ面そのものになっていた気がした。本当は怖かったけど、不思議と心地良かった。面と一つになって、サオは少しずつわかるようになる。ここではない場所に自分のあるべき居場所があるのではなく、どこにも居場所はない。けれど、私の身体だけが私のあるべき場所だ。私のいる場所が私のあるべき場所だ。そして今、気づいたら暗いところに迷い込んでしまっていた。一定に流れる時間からこぼれ落ちて、絶えず揺らいでいる暗い面に。本当は抜け出した方がいいのかもしれない。長くいてはいけない場所なのかもしれない。それでもサオは今、ここにいようと思った。きっとイドもこの果てしない暗い面のどこかにいるのだ。ここで呼びかけに耳を澄まし、そしてこちらから呼びかけ続けようと思った。今は言葉にできないけど、そんな話をいつかしたい。