年号が変わって雨があがったあと、曽祖父が死に、姉が妊娠したという連絡が来た。それで私は夏の始めごろに、家に帰ることにした。
私はひんやりブルーな気持ちだった。姉とどう関わればいいのか。幼い頃は仲良かったはずが、いつからか会話が減っていき、気まずい仲になってしまった。どんな顔をして何を話せばいいのか、新幹線に乗っている間にずっと考えていた。
駅を降りると母さんが車で待っていた。母さんはおしゃべり好きだから、こちらからなにか訊かずとも、この頃の家の事情をするするとしゃべり出した。叔母さんのところはどうだとか、従兄弟はこうだとか。そんな話を聞いていると、あっという間に家に着いた。二十分ぐらい経っていた。
玄関に入るやいなや、従兄弟の子供のちびっ子たちが走り回ってにぎやかだった。その真ん中に姉は立っていた。いつもと変わらない様子だった。サッと姉と目があったが、すぐにちびっ子たちに姉の意識を奪われた。母さんは母さんですぐ昼食の支度を始めて、私はそれに従った。
そうめんがテーブルに並び、ちびっ子たちが取り合いをしているなか、私はちょこっとずつ箸でとって食べた。姉は母さんと叔母さんとの会話に朗らかに応じて、私は入る隙を失った。
「いつごろ、産まれるのさ」
「十二月ごろですね」
おしゃべりな母さんと叔母さんの脇で、私はひたすら麺をすすることしかできなかった。いつも自然と場の中心にいるのが姉なのだ。社交的で落ち着いていて、気配りもよくできた。きっと姉のことが嫌いな人なんて誰もいない。どこにいってもうまくやっていける。そんな人だ。結局、姉とは話せずに昼食を終えた。
皿を洗った後は神社に行った。帰省するたびに、先祖の墓にお参りに行けと母さんに言われるから行く。玄関で靴を履いてから、ふと姉の姿を探すと、またちびっ子たちに捕まっていた。一眼でも見たら、みんな姉を好きになりそうな笑顔だから、子供たちにだって人気者だ。しかたなく私は一人で神社へ向かった。
境内はいつもしずかで人がまったくいなくて、ちょっと朝もやがかっているみたいに透明で落ち着いている。背が高くて濃いみどり色の杉の木の影で鬱蒼としている砂利道の、木漏れ日のないところを辿って歩いた。本殿を回り込んだ後ろの小道、そこを進むと墓地がある。バケツと柄杓とたわしを持って、お墓の掃除をして、お線香を立てた。
お墓参りをするときも、姉のことが頭の片隅にあった。いつも姉はうまいように人生を進めているように見えた。スポーツも勉強も難なくこなして優秀な成績を残し、大手企業に就職してすぐに結婚した。そして今や妊娠もしている。それに比べて、私はいつも地味だった。そこそこの学力の学校に行って、特に目的も趣味もなく生活を繰り返している。ほんとうに姉と本当に血が繋がっているのかさえ疑わしくなってくる。私がなるべく家に帰りたがらない理由にはいつも、姉の気配がある。姉のことを考えると、私はぐっと目が細くなる。
足取り重いまま墓地を出ると、境内にひとり佇む女性がいた。石灯籠の列に紛れ込んで、その人はこちらを見つめていた。私にそっくりの人だった。
「げんき?」にこにこしながら彼女は声をかけてきた。
「だれ?」
「あなたの妹よ」私にそっくりだけど、私とは違って、笑顔の可愛い人だった。いたずらが好きそうな笑顔。
「私には妹はいない」
「いる。もう死んじゃったけど。いたの」
「ふうん」
「もっとおどろいてよ」妹はころころ笑った。
「だってそういうの、マンガやアニメで腐るほど見てる」
「なんだ、つまらない」妹の言う通りだった。私は夏の日陰みたく涼しく落ち着いている。
「でも私にはほんとうに妹はいなかった。姉と二人だけ」
「私が死んだ時、あなたは産まれた」妹の口調はまるで、背中をくすぐるみたい。
「それなら、わたしたちは一緒に産まれた?」
「そ、あなた、双子だった。私は死んだ。あなただけが産まれた」
「ふうん」
少しのあいだ、杉の木々がさわさわ揺れるから、木漏れ日も揺れた。日の光にあてられると、妹は半透明にすきとおって輝いた。
「母さんにきいたことないでしょう」
「たしかに。初耳だった。母さんに聞いたことないこと、なんで知ってるの?」今度は自分がくすぐられるように、妹は笑った。
「それはね、ずっと隣にいたから。幽霊でも家にいられる。歳をとることもできるんだ」
「あなたは産まれる前に死んだ。けれど、私と一緒に今も歳を重ねてる」
「そう」
「それで、私があなたを見えるのはなぜ?」
「私、結婚するの。それで見れるようになったんだと思う。きっと」
「死んだ人も結婚をするんだ」
「そう。今度の七夕に。式を上げようと思うの。七夕のお祭りの夜に」
「おめでとう」ようやく私もほわっと笑った。本心からの言葉だった。私と妹はなんとなく呼吸があっていた。だから、なかば疑わしい話も信じられた。
「旦那さんと挨拶に行くよ。また今度」
木漏れ日に溶けるように、妹は消えた。妹の笑い声みたいに木々がまた揺れて、木陰も伸び縮みした。神社にひとり取り残される私。けれどまだ妹がどこかにいるような気もした。暑い日差しの隙間とか、鳥居の影の下とか、屋根の下のお地蔵さんたちの後ろとか。そこで私をからかうように見つめている。気がする。
家に帰ってから、母さんに聞いてみた。妹について。私が双子だったことについて。
「よく知ってるわね。掘り起こしてもしょうがないし、話してなかったのよ。ごめんね。怒った?」母さん、そういうとこ、あると思う。さっぱりしているのはいいけれど、肝心なことを言わないことが、よくある。
「それ、誰から聞いたの?」母さんが訊いた。
「おばあちゃんが言ってたんだ」私は適当に嘘をつく。
「ふうん」自分から聞いたのに、興味なさそうな母さん。
夕飯前には姉は帰ってきた。が、またもやそのままちびっこたちに囲まれ、奥の部屋に流されていった。私はまた姉と話すタイミングを失って、二階の自室へ向かった。部屋の戸を閉めてから、知らない男が部屋の真ん中で正座しているのに気づいた。私はその場で硬直してしまった。が荷物を全部引き払って、母さんの物置のように扱われている愛着のない部屋、まだ電気もつけていない暗い部屋に、男が気まずそうに正座していた。私が部屋に入ってくると、こちらを見て顔を輝かせていた。
「すみません突然。お初にお目にかかります。旦那です」
「どうも」と言ったものの、私は凍ったまま。
「たしか妹の旦那さんで……?」と聞くと、彼のかしこまった表情が少しほぐれる。
「そうです。私です。本日はご挨拶にあがりました。七夕、ぜひいらっしゃってください。きっと楽しいです」と彼は言う。そこでいったん、会話が途切れた。旦那もちょっと気まずそうだった。もちろん私も気まずい。とは言っても、何を訊けばいいのかわからない。窓から涼しい風が入って、カーテンが揺れた。カーテンの水色を吸った光が、旦那の上で揺れた。旦那も半透明に揺らいだ。
「あの」
「はい。なんでしょう」旦那はとっさに反応する。
「あなたも死んでいますか?」
「そうです。私も死んでいます。死者も歳を重ね老います。私は妹さんの二個上です。去年も二個上です」きっちりと彼は答えた。彼の背筋みたいにきっちり。
「ふうん」うまく返事ができなかった。赤の他人の死んでいる人に何を訊けばいい?とりあえず部屋の電気をつけないまま、旦那の前に私も正座してみた。電気つけないんだ、みたいなちょっと驚いた表情を旦那は一瞬したけど、私は無視した。
「あの」
「はい。なんでしょう」
「あなたはどうやって亡くなったのですか?失礼な質問でしたらすみません。死んでいる人と話すのは初めてです」
「大丈夫です。お答えしましょう。わたしは二歳のとき、家族旅行中にトラックとぶつかって死にました。ああ、二歳の出来事なんて細部は覚えていません。けれど死んでも家族と一緒なのは、それはそれで幸せでした。いえ、心中の教唆ではないですが。すみません。生きてる人と話すの慣れてないです」
「ふうん」そこでまた会話が途切れる。やっぱり聞かなきゃよかったと思った。気まずかった。旦那も気まずそうだった。
「あの」
「はい。なんでしょう」
「妹は来ないんですか?ここに」
「来ると聞いてたんですけど、どうでしょう。こうやってすっぽかすことがよくあります」妹、そういうとこあると思った。
「自由ですね」
「そうですね」旦那はちょっと居心地悪そうに、正座をし直した。旦那の顔に、どことなくくたびれた様子があった。この人、私が来るまで何時間もずっと正座で待っていたんだろうかと思うと、面白かった。
「今日はどこから入ってきたんですか?」
「玄関からお邪魔しました」
「玄関から」窓からだと思っていたけど違ったようだった。律儀な人だ。
「まずかったですか」
「誰かに見られなかったんですか?」
「それは大丈夫です。あなたにしか見えません。私たち二人とも」
「なぜ?」
「なぜ?僕もわかりません」
「……」二人とも黙った。沈黙で回答を要求しているのかと思ったのか、旦那は腕を組んでちょっと考えてから、口を開いた。
「推測でよければ話しましょう。新しいつながりができるからかもしれません」
「新しいつながり?」涼しい風がまたふわっと忍び込んできた。カーテンが揺れて、月明かりが部屋に見え隠れしていた。月明かりが明るくて、旦那は消え入りそうだった。対照的に、私の部屋は塗りつぶされそうなほど影が濃くなった気がした。
「そうです。両家の新たな結びつきができる。儀式的に行うから、強固なつながりです。同時に、あなたと妹さんとの二人のつながり方も変わります」
「それで、今の話とどう関係あるんでしょう」
「新しいつながりができるとき、自分とその対象との境い目がゆるやかになります。人と人の境い目、妹さんとあなたの境い目、生き死にの境い目、とか。ゆるやかになって、境い目のその先まで見えてしまうことがある。その先まで行ってしまうこともある。おそらく」私は口をつぐんで、静かに考えた。旦那の推測が腑に落ちた。今までまるっきり見えなかった妹が現れたのは、そういうことなのかもしれない。黙り込んだ私をみて、旦那は焦り始めた。
「なにか変なことを言いました?不快にさせました?私たちが見えるようになって」
「いや、そんなことはないです。本当のところはわからないけれど、面白い推測です」ようやく旦那はほっとしたようだった。
「それはよかった。今後もよろしくお願いします。今日のところはこれで失礼します。妹もこなさそうだし」そう言って旦那は立ち上がった。足が痺れている様子はなかった。忍耐強い人だ、と思った。
「わざわざありがとうございます。帰りはどちらから帰られます?」
「玄関からで。お邪魔しました」
いそいそと旦那は出ていった。なにやら苦労の多そうな人だと思ったが、妹とは気が合いそうでもあった。 私はそっと後ろ姿を見送った。階段は薄暗いし狭いし古くて軋むから、旦那は一段一段慎重に降りていって、薄暗さに負けそうなほど弱々しく揺らいでいた。他の誰かに旦那が見られてはいまいかと、どぎまぎしたが、その心配はいらないようだった。階段を降りて一階の明かりに入った途端、旦那は消えた。まるで自分ごとのように安心して、私も階段を降りた。キッチンへ麦茶を飲みに行こうとすると、そこにいたのは後ろ姿でいやに哀愁のある姉。明かりをつけずにシンクの前に立っている、姉のほの暗さ。思わず入り口で立ち止まってしまった。姉も気配を察したのか、こっちを向いた。
「どうしたの?」さっきまでの暗い気配はなくなり、姉はいつも通りの表情でこちらを見ていた。
「いや、なにも……」もごもごとを呟いて、その場を離れた。階段を登りながら、姉の口ぶりの朗らかさに動揺していた。直前の、あの寂しさはどこへ?
次の日は妹と二人で町を歩いた。彼女は無邪気で、母さんのようになんでも喋りたがった。他人との距離感など知らない子犬のように。
「旦那はどうだった?」
「どうだったんだろう」
「どうよ」
「まじめな感じ」そういうと、妹は楽しそうに笑う。
「ははは!それもそうだ」
「賢い感じもあった」
「どういうところが?」そう言われて私は黙った。私と妹のつながりは本当にあるんだろうか、ふと気になった。私は今まで、彼女の存在すら知らなかった。彼女のことはなにも知らないけど、血でつながっているから?
「あなたは生きたかったって思わない?」私は別の質問で返した。
「思わない。死んだことしかないから」
「ふうん」
「あなただって死にたいって思わないでしょうに?生きたことしかないから」
「……」
「……」
「……」
「それで、旦那のどういうところが賢いと思うの」
「あなたと結婚するところとか」
「たしかに」妹は今までで一番楽しそうに笑った。よく笑う子だと思った。町はなんとなく活気付いていた。みんなお祭りの準備をしていた。私たちはそれを眺めながら二人で歩いた。
久々に帰ってきた町は、なんだかすべてが小さく見える。それに人が増えているようにも感じられた。妹のような死んでいる人たちが、この町にたくさん帰ってきているのだ。彼らははたから見ると、あたかも生きている人のようにして紛れ込んでいた。けれど彼らは光に当たると、決まってさらさら輝いた。妹みたいに光を体に含んで輝いた。
道を歩く人、店の準備をする人たちを眺める人、子供が遊ぶのを遠くから眺める人、やっていることは様々だったが、誰しもが生きている人との距離感をきっちり保っていた。どう接すればいいのかわからないのかもしれない。死んでいる人たちは皆、落ち着いて妙にすっきりとした表情だったけれど、仕草はどことなくよそよそしくもあった。最初は生きている人も死んでいる人も紛れて賑やかになったように見えた町は、よくよく見てみると分断してもいた。生きている人たちの空間に、ややぎこちなく佇んでいる死んでいる人たちは、まるでそれが自分たちの生活だと言わんばかりに、ぎこちないまま、生きている人たちと空間を共有していた。それでも幸せなのかもしれない。突然現れるカーブミラーに、浮かない顔をする私がぽつんと写ってた。
死んでいる人は妹を見かけるたびに話しかけてきた。妹は嬉々として応じた。はつらつとした妹の笑顔を見ると、彼女は美人だと思った。自分と顔がまったく一緒だけど、そういうところは姉に似ている気がする。血がつながっているのに、なぜこうも違うように見えるのか不思議で、少し嫌な気持ちになった。
なんで私は姉や妹のように愛想のいい、美人に産まれなかったのだろう?妹はいろんな人に気さくに話しかけた。みんなとうまく関係を築いているようだった。双子はこうも似ないものなのか、なんだかとても居場所がないような気がした。それで思った。なんでこの子が死んでるんだ?私の方がいいのに。なんで私って生きてんだっけ?
祭りの前日になると、食卓が騒がしくなっていた。どうやらうちの家族も何か出店するようだった。母さん、早く言ってくれればいいのに。
「だってせっかくの帰省なんだし、休みたいでしょ?」そうだけど……母さん、そういうとこ、ある。
お祭りの会場まで行ってみると、皆で屋台をせっせと作っていた。屋台と屋台の隙間に、不自然なスペースがぽつぽつあった。なんのためのスペースなのか、母さんに聞いてみた。
「ご先祖様のために開けてるらしい。そういうしきたりなのよ。ご先祖様も祭りに行きたいし、屋台だって出したいでしょうに」母さんはそう言った。たしかに死んでいる人たちもなにやら準備をしているようだった。生きている人たちがせかせか準備している間を縫って、死んでいる人たちは荷物を運んだり、顔を合わせて話し合ったり、なにかを企てているようだった。妹と散歩していた時より、死んでいる人たちも活気付いていた。祭りの雰囲気に浮かれ始めているのかもしれない。
私もなんだか落ち着かなかった。祭りの前はいつもそうだ。みんなが準備にのめりんでいる中で一人、なんとなくのめりこめきれない自分がいて疎外感がある。だから祭りの前はなんだかずっと着地できないうわついている気持ちがあって、ちょっと気持ち悪い。そんなもやもやを抱えて、夕方ごろ家に戻った。
キッチンに入ろうとすると、ちょうど電話を終えた姉がいた。私は立ち止まったが、姉は通話画面を見たまま動かなかった。そのまま二十秒ぐらい経った気がした。姉に気づかれない私は、まるでそこに存在しない人になってしまったみたいだった。私はキッチンの扉の向こうへ進めない。姉はずっと真剣な顔のまま固まっていた。姉はいつもそうだった。突然硬直して考え事をする。わき目も振らずに考える。死んだように静かに息を止めて思考を張り巡らしている。
思い切って、私は声をかけてみた。
「どうしたの」ハッとするように姉が顔を上げた。
「なんでもない」
「お祭りは行かないの?」姉に聞かれた。
「お祭りは明日だよ」私がいうと、放心したような様子だった。
「そういえばそうだった」あらぬ方向へ姉は目を逸らした。私はそのまま自室へ戻った。姉の様子も気になったけれど、私は私のことで精一杯だったから。明日の準備を何もしていない。祭りって何がいるんだ?結婚式って何がいるんだ?
何もいらないよ!手ぶらでいいよ!って妹は言ってたが、そんなわけがない。多分。小一時間ほど布団で寝転がって考えてたら、妹夫婦がやってきた。部屋のドアから丁寧にノックして入ってきた。
「いつもいつも日が暮れてからですみません。まるで幽霊ですね。これじゃあ」旦那がぎこちなく、面白いことを言っているような顔をして言ったが、私は受け流した。
「明日だよ!ついに……ね!ね?」妹はいつも以上に上機嫌だった。
「今日は何をしに?」
「あいさつにね」
「二人で挨拶しようと思って」
そう言って二人とも正座した。二人揃って並ぶと、なんだかこの人たち結婚するんだ、というのがよくわかる気がした。お似合いという感じなのか、二人で一人という感じがした。まるで二人の境い目がない感じ。
「調子はどうですか?」旦那が聞いた。
「調子ですか」
「いえ。元気になったかなと思って。この前は少し落ち込んでいる様子でした」
「ちょっとは元気になったかも」
「それはよかった」旦那は本当に安心しているようだった。
「楽しみにしててね」妹がいつもの笑顔で言った。
「どう楽しめばいいのかな」
「あなたの思うように楽しめばいい。好きなように踊ればいい」
「わかんないな」結婚式って踊るものなのか、と思ったけど、そういうものなのかもしれない。死んでいる人にとっては。
「でも気をつけてね」
「なんで」
「私たちの世界に引き込まれちゃうかも。羨ましすぎてね」
「そんなにいいのかな」
「めちゃいい。この世のものとは思えないぐらい。結婚式は特に」二人は幸せそうだったが、片隅で、夕暮れの姉の表情が引っかかり続けていた。それで再びもやもやした気分になった。姉は妊娠していて、思い詰めもしていて、妹は結婚してる。私は自分のことしか興味がない。私ってなんで生きてんだ?そんなことを考えていると、旦那にじっと見られていることに気づいた。感情をまた見透かされているような気になって、さっと目をそらした。目を逸らされて、旦那はちょっと傷ついたようだった。それを見て妹がくすくす笑った。
次の日は朝から家があわただしかった。私がちょっとゆっくり起きた時には、みんな外に出かけようとしていた。私がぼんやりと朝食を食べているうちに、家は空っぽになってしまった。ふたたび一人になる私。
昼過ぎにお祭り会場へ行ってみると、すでにたくさんの人で賑わっていた。ちょこちょこ歩いていると、広場はぎっしりと屋台で埋まっていた。相変わらず、私には死んでいる人たちが見えていたが、今や生きている人々と見分けがつかなくなっていた。町中ではちょっぴりよそよそしかった彼らは、祭の気にあてられて、みんな生気がみなぎっていた。屋台と屋台の間の不自然なスペースには、死んでいる人たちが円卓の机を囲んで、和やかに話し込んでいた。まるで生身の身体を持っているかのように、死んでいる人たちも生きている人たちも祭りの一部になっていた。日が暮れていくにつれて人が増え、人が増えていくにつれて私の気持ちがざわついていった。昨日のように、祭りの一部になりきれない私がいる。
夕方になると、信号雷が打ち上げられて、皆がそちらを見た。川原では夜の花火の準備をしていた。やぐらの上で太鼓が始まると、生きている人たちはそろそろとやぐらの周りに集まってきた。祭りの会場の入り口では、妹と旦那が現れた。立派な白い着物を着て、後ろに一人の介添えを引き連れて、あらゆる生者をすり抜けて、粛々と進んでいった。二人はここにいるどの生きている人たちよりも死んでいる人たちよりも、存在をたぎらせていた。
二人がやぐらに登っていくと、その周りでは盆踊りが始まった。やぐらの二階へ登ると、知らないうちに暗くなっていた会場を守るように、提灯が点灯し始めた。私は壇上の二人を見つめている。二人はまっすぐ前を見据えてた。あそこからなにが見えるのか気になった。真上を見上げると、うっすらと星が出ていた。提灯の光に押されながら星はかすかに増えていき、お祭り騒ぎも次第にふくれていって、それに飲み込まれるように、私は今、どこで何をしてるのかもわからなくなっていった。どこからか淡い水色の涼しい風が人混みをすり抜けてきて、私の足元を過ぎ去っていった。なんだかとても虚しくなった。
二重に揺れる屋台の中で、金銭がさざめき立っている。思想も信仰も忘れた人々が踊っていて、踊らなければやってられない人々も踊っていたけど、身体から解放された信仰高い死んでいる人たちの踊りが一番楽しいに決まっている。他の人たちは輪の外から合唱して、食べ物を買っている。死んでいる人は祭りのない頃を忘れ去る。夜を夜だと気づかずあいまいに夜に紛れ込んでいる。生きているか死んでいるかもわからない、誰かの唄の長い一節が聞こえる。婚約者は盃を交わして独り身は茫然自失、子供らは思い思いのおもちゃを備えてどっかに走っていった。身体を日常に投げ捨てて心だけで楽しんでいる。死者も生者も一人残らず呼吸を共有しているように空気がつながって、祭りの呼吸が聞こえるみたい。
私がちょっとだけ意識を取り戻したのは、姉が偶然私の前を横切ったからだった。私は引き止めようとして、やっぱりやめた。姉はいやに暗い顔をしていた。私は声をかけられず、そのまま見過ごしてしまった。すぐに後悔して、それで私はまた意志のよりどころをなくして祭りに飲み込まれた。
死者はどんどん正気を帯び始める。新婚の二人はやぐらの上で楽しそうに踊っていた。本当に生きているような輝きで、幸せそうだった。死んでいる人たちはいよいよ生きている人たちとの境い目に寄っていって、その影だけはもう見えているけれど、誰もそのことには気づかない。死んでいる人たちの熱で綿菓子が縮んで、氷菓子も溶けている。風や土に還った灰よりもたしかな魂が、祭りの熱気で形になっていく。生きている人なら誰しもが魂と祭りの熱気を空目しただろう。あちこちで飛び交う言葉で祭りの大気は少しずつかき混ぜられて、言葉の発せない死者は、その大気の流れを感じながら身体を揺らしている。
突然花火が上がった。知らない間に打ち上げ時刻になっていたようだった。少し休むために、私は祭りの中心を離れて川原の方へ歩いていった。花火が放つ音と光を横に感じながら、祭りの呼吸がだんだん離れて消えていくのに集中した。ゆっくりと意識を取り戻すようにして、川原を歩いた。
途中で足を止めたのは、川のほとりに人が立っていたからだった。向こう岸で花火が打ち上げられている。それに見惚れるようにして、その人は川のこちら側のほとりに立っていた。あと一歩でも進めば、川に落ちそうなところに。
私はじっとその人を見つめた。その人はじっと花火を見つめていた。ときどき、花火の光に照らされて、その女の顔は紫色に染まった。女は泣いていた。静かに動かずに立ちつくして、花火を見つめて泣いていた。花火が終わるまで、私は女を見つめていた。
花火が終わったと気づくまでに、五分ほどかかった。なぜなら女もずっとそこにいたからだ。花火が終わっても、女を観察し続けたが、ずっと女が動かないのを見て、諦めて祭りの方へ歩き始めた。道中、名残惜しくて何度も女の方を振り返ったが、女はずっとそこにいた。女はなにを見ているんだろう?
会場に着くと、祭りはまとまりを失って、ちょっとずつ解散していた。片付けが始まっていて、みんながそれぞれの帰り道へ向かって歩き出している中、それを逆行して私は再びやぐらの方へ向かって進んだ。まだ屋台で買い物をする人、そこら辺に座ってだべる人、まだ酔ったように溜まってる人、そんな人たちを憂いた目で眺める死んでいる人たち。くたびれたようにみんなちょっとずつ冷めていっていた。
やぐらにはもう二人はいなかった。生きている人たちが太鼓を運び、後片付けを始めていた。
「もう終わったよ」と後ろから言われて振り返ると、二人がいた。
「今日はありがとうございます」旦那が深々とお辞儀すると、妹はまたふかふか笑った。
「どうだった?」
「生きてる人たちよりも綺麗だった」
「ありがとう!すごくうれしいね」私はここまで走ってきたような、泳いできたような、なんだかやけにせりあがっている気分になった。
「それじゃあ、しばらくお別れ。あなたの前に出てくるのはちょっとやめておこうと思う」そう言われて驚いた。ずっといるものだと思っていたから。
「なんで?」
「新婚の時ぐらい、ゆっくり二人でいたいじゃない」
「まあ、それもそうかもしれない」
「これからずっとあなたに会えなくなるってわけじゃないよ。あなたの結婚式があったらまた会おう。この一週間、あなたと過ごせて本当によかった。楽しかった。どれだけ離れたもの同士でも、たしかにつながっているのを感じられた」それは私もそうだと思った。
「あなたのこと、何も覚えてないし知らないし思い出もない。でもこの一週間だけでも、つながりあえることができたと私も思う。うまくいえないけど」
「今までも私はいろんな祈りを受けてきたけど、今日はとびきりとっておきの祈りを授かったみたいで、すごく素敵な気持ちだ。ありがとう」妹はそう言って、私を抱き寄せてくれた。近くで見ると、妹は本当に私にそっくりだった。時々、本当に自分の分身なんじゃないかと思った。けれどたしかに他人で、自分ではない存在ということもはっきりとわかってた。その証拠に、彼女は結婚していて、私は結婚なんてしていない。ひとりぼっちだ。
「あなたには自分を大切にしてほしい。それと、姉さんも大事にしてあげてね」
「姉さん?」
「そう。きっとあなたと話したがってる」
「姉さんが?」
「そう。姉さんも私たちの姉妹。でしょ?」
それを最後に二人は風が吹くように消えた。私は一人でやぐらの前に取り残された。夢からめざめたように、祭りから何人かの人々が消えた。私はもう死んでいる人たちを見れなくなってしまったのだ。残った人々は、私の気持ちなんて知らずに祭りの余韻に浸かっている。私は祭りの中にいるようでいて、けれどたしかにひとりだ。
私は家へ帰る最中、妹のことを考えていた。私のせいではない、でも、たしかに死んでいる。どうしようもないことだけど、あの子は死んで、私は生きている。突然水音が聞こえて、振り返ると少年どもが石を川に投げて遊んでいた。私は川原で花火を見ていた女性を思い出した。
私はあの人を見たことがある。知ってる。そう、あれは……姉だった。間違いない。あの時、あそこで泣いていたのは姉だった。姉は両手をお腹に添えて、静かに泣いていた。花火を見て、なにを考えてたんだろう?なにを思い出してたんだろう?それとも、本当に花火を見ていたんだろうか?姉の横顔が今になって鮮明に焼き付いてきた。
次の日は朝起きてすぐに帰り支度をした。が、今度はほとんど全員が起きてなかった。大人どもは祭りから帰っても家で宴会をしていたようだった。駅まで車で送ってく!と張り切っていた母さんは、布団の中で爆睡していた。起こそうとすると、眠そうに唸って蹴られた。母さん、そういうとこ、ある。
「送ろっか」と言ってきたのは姉だった。
「でも」
「でもじゃない。いいの。駅までだったらちょうどいい運動。忘れ物はない?」そう言われて私は姉に従った。
車の中では全然話せなかった。運転席と助手席に並んだとて、私は何を話せばいいのかわからず無言で、姉は姉でいつも寡黙なのでひたすら運転に専念していた。いつも通りの姉だった。
私は帰省中の姉を思い出した。子守りをする姉、じっと私を見つめる姉、誰かを思うように画面を見つめる姉、花火を見て泣く姉……。どれも一人の人間のようでいて、違う人間のようでもある。たしかに言えるのは、私の姉だということだけだった。なにか心配をしたいが、でもなにを言えばいいのかわからない。他人事のようで、いつのまにか他人のことも自分ごとのようにする姉。私と姉の境い目はどこにあるのか、いつもわからない。駅前の駐車場に到着すると、姉は時計を見た。
「何分の電車に乗るの?」
「五十分。あと二十分ぐらい」
「家を出るのが早すぎたかな」二人で車を降りて、駅のホームのベンチで待つことにした。まだ朝だからか、ゆったりとした時間が流れていた。皆が昨日のことなどなかったかのように、すたすた歩いていた。寝起きの本調子ではない空気に包まれている。車内では思いつきもしなかったが、とてもいい天気で過ごしやすい気候だった。ホームとホームの間の線路に大きな光のかたまりが広がってて、小さな雑草もみずみずしく見えた。その構造に沿って、涼しい風が吹いていた。ちょっと視線を落とすと、姉のスニーカーが見えた。ほっそりとした白い足の先に、履き慣れ始めたぐらいの汚れのついたスニーカーが見える。私は黙ってそれを見つめた。
「げんき?」姉が口を開いて顔を見合わせた。一瞬戸惑って言葉が出なかったが、笑ってしまった。
「おかしいこと言った?」
「ずっと同じ家にいたのに、ようやくちゃんと喋った気がする」
「それもそうだね。ごめんね」
「別にいいの。私は元気」
「けれど、あなたも話しかけてこない。高校に入ってからずっと。ずーっと」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「そうか。そんなつもりなかったけど」私はぶらぶら足をうわつかせた。意識せずとも、姉と話す時のテンポを思い出せた。線路に落ちる光は、見えないようでいて、死んでいるみたいに半透明に揺らいでいるようにも見えた。姉もそんな人だとふと思いついた。生きているはずなのに、いつもどこか半透明で揺らいでいるようにも感じる。姉は昨晩の祭りよりも、朝の駅のホームが似合う人だ。まだ眠そうな人たちの中で、ぼんやりと溶け込んでいる。次の瞬間、人たちではなく光の方に溶け込んでしまいそうな人。
「昔は憧れがあったからうまく話せなかったのかな」
「うそ」
「ほんとだよ」
「ほんとかな」姉は静かに笑う。そう、昔は憧れがあったのだ、と自分で言ってから気づいた。でも、不思議と今は違う気もした。
「でも今はどうだろう。私は姉さんの何なのかわからないから、うまく話せないのかも」
「妹でしょ」
「そうだけど……。だけど時々、時々ね、あなたが自分の姉とは思えない時がある。姉じゃなくて、自分そのものなんじゃないかと思える時がある。だから話しかけられない時があるんだ」自分で考えてないことをすらすら話して、自分でも驚いた。けれど、言ってから考えると、たしかにそれは本当に私が思ってることでもあった。
「おもしろい。たしかに、ときどき、私はあなたなのかもしれない」
「そうだといい。けれど、それを考えるたびに、こうも考える。でも絶対に違うって。他人だあなたは。私だけど私じゃない他人だ」
「あなたの言いたいこと、なんとなくわかる気もする。なんとなーく。ね、お腹触ってみる?」
「え?」
「帰って来てから触ってないでしょ」姉は私の手をとって、服越しにお腹を触らせた。とても肌触りのいい、涼しくてさらさらした生地だった。その奥に、姉の肌の熱を感じた。夏の木陰から眺める、日差しの中で遊ぶ人たちみたいな熱。姉の肌はあたたかくて、ゆるやかに張り詰めてふくらんでいた。
「なんかふしぎ」
「そうでしょ」ちょっと手を動かしてみた。ずっと柔らかなふかふかが続いていた。なんだか、だんだん姉が姉じゃなくなってくみたいだと思った。
ずっと触れていると、ふかふかが終わるところがあった。姉だけの肌の始まるところがあるのだと思った。赤ちゃんのいるところと、姉のお腹の境い目、私はかすかに感じる、その境い目の線を指でなぞった。
「そこ、いいでしょ。つながってるけど、でも私とは違うものだってことも感じられるから、私は好き」
たしかにそうだ、と思った。つながりあってるけど、違うものでもある。違うものだけど、たしかにつながりあってもいる。
「私の中になんかいる感じ、いいでしょ。生きてるのかわからないなにかが。それがいいの」姉は風にくすぐられるみたいに笑う。
姉と別れて、新幹線でまた一人になった。それからこの一週間のことを振り返って、ふと思った。私って今、生きてんだっけ?