まどろみから意識がさめると海があった。
いつのまにかうたた寝をしていたようだった。隣ではミナミが本を読んでいる。
「何の本?」
「詩集」波の音がする。満ち引きのようにまどろみが押しやってくる。
それにあらがうように、もう一度質問をした。
「詩はどうやって楽しむのか、僕にはよくわからない。……それ面白い?」
「面白い。読んでみなよ」ミナミは本から目を離さずに言う。乾ききった二人の身体は潮風にあてて潤す。僕はゆっくりと頭だけを起こして、ミナミの横顔を見つめる。ミナミは黙々と読書をする。僕だけが彼女の声を聴く。パラソルの中。
ゆっくりと体勢を変えて、今度は砂浜の観察を始めた。子供はズボンの裾を持って波際へ接近しては、しぶきを受けて声を上げて逃げる。遠くでは男が腰まで海に浸り、サーフボードを押して頃合いをはかっている。灰色の小さな蟹は、横向きにちょっとずつ砂浜を進んでいた。波に飲まれない、ちょうどいい距離をわかっているようだった。それを眺めながら、まどろみをころがしていると、どこからか青いスーパーボールが飛び跳ねてきた。蟹は驚き加速して小さな穴に潜ってしまった。
やがて二人の男の子がやってきて、スーパーボールを拾う。駆け出して、視界から消えて行く。砂浜のほとぼりがさめたころに、穴から蟹がまた出てくる。子供の声と波音を聞きながら、今度こそ眠りに落ちた。
夜。ベッドでもミナミは本を読んでいた。二人で一つのベッド、シーツの皺も一人分だ。
「死んで生まれ変わってドイツ人と結婚したいな」ミナミは本から目を離さずに言う。いつもそうだった。
「どうして」
「ドイツ人の子供が欲しい。三人がいい。男の子二人、女の子一人」
「ドイツ人の何が良いのさ?や、別に悪いってんじゃないけど」
「何が良いって、部分じゃ語れないね。総体として、こう、なんか良いんだよ」
「わからないな」
僕とミナミは互いの気持ちを知ろうとする。互いの身体を触れ合い、混ざり、そして離れる。それから僕はまどろみに取り憑かれ、ミナミはまた本を読んでいる。まどろみがテーブルクロスを巻き込みながら落ちるように、再び僕は眠りにつく。
砂浜から少し歩くと、中くらいのショッピングセンターがあった。水着の上にパーカーを羽織って店内を物色した。
床は客が歩くたびに砂利で汚れているようだった。一階には食品売り場が陣取っていた。片手で持てるほどの大きさのスイカの前で立ち止まったが、ちょっと考えてから、買うのはよしておいた。エスカレーターに乗って二階に上がると、目の前にあったのは小さな本屋だった。店頭に平積みされている本は知らないものばかりだった。僕は文庫本や雑誌の一冊や二冊、手に取ってぱらぱらと眺めてみたが、興味のないものばかりだった。レジでは店員が変色した新書を集中して読んでいた。店員は彼女だけだった。彼女がこの本屋を切り盛りしているのかはわからなかったが、ずいぶんとこだわりの強そうな本屋だった。薄っぺらい文庫本を、五百円玉一枚を出して買った。
浜辺に戻ると、ミナミただ海を眺めてた。
「泳がないの?」僕は訊く。
「私はいいや。一人で泳いでおいで。荷物は見てるからさ」ミナミは僕の顔に見向きもしなかった。彼女の身体の曲線は綺麗だと、ふと思う。
しかたなく、僕は一人で砂浜をほっつき歩いた。子供達がスーパーボールを投げ合っていた。ボールの人工的な青さは海岸にそぐわない。わだかまりが子供の手から放たれ、宙を飛んで別の手へ、それを反復している。僕は思わず目をそらして、水平線のほうに視線を追いやった。水平線のふもとは日差しを受けてやわらかな色合いをしている。光と影の区別がおぼろげに混ざり、遠くの島の輪郭だけがはっきりと現れている。視線を上げていくと、黒い影が広がっている。やがて雨が来るのだろう。
痙攣するように、左のまぶたが半分閉じて、半分開いて、それを小刻みに何度も繰り返した。潮風をやおら薙いで、僕はなんだか焦りが込み上げ、海に入って泳ぎ始めた。この僕をミナミは見ているのだろうか。
夕食を適当なレストランで済ませて、ホテルの部屋に戻った。昼に買った本を持って、読書に最適な場所を試し試し探った。ソファもベッドも駄目だった。ミナミのお気に入りの場所だから、僕がそんなところでだらだらしていると、いつも文句を言って取られる。バスルームに入ってみると、浴槽に目を止めた。僕は浴槽の底で仰向けになって身体を落ち着かせた。浴槽の蓋を半分ほど広げた状態で乗せた。腹から下が隠れた状態で、僕は本を顔の上に持ちあげて読み始めた。まるで棺の中で死んでいるみたいだ、と思った。
「棺にいる人が死んでるのは当たり前と言えば当たり前だけどね」ミナミが言った。本をずらすと、ミナミが僕を見下ろしていた。
「確かに」死んだ人はたいてい棺桶に入る。棺桶に入っている人は、たいてい死んでいる。何も言い返せなかった。
「なんでこんなところにいるの?」
「こういうところの方が落ち着くんだ。フィット感がある」
「変なの」ミナミは浴槽の縁に腕を乗せ、その上に横顔を預けた。
「その本、ヘッセの詩集だ」
「すすめられたから読んでるんだ」
「面白い?」
「ぜんぜんわかんない。やっぱり楽しみ方がわからない」
「それは残念。すれ違ってばっかりだね。いつも肝心なところで、気が合わない、私たち」
ミナミはすぐに何処かへ行ってしまう。ひらかれた場所にいると、彼女はいつもマイペースだった。だから僕たちはすれ違う。しばらくそのまま本を読んでいると、だんだん眠くなって、本が顔面に落ちてきた。面倒になって本を無視して、そのまま眠った。
次の日は朝から身体の調子が良くなかった。死人のように指先が冷たく、身体の節々が軋む。浴槽で寝なければ良かったと後悔しながらビュッフェで朝食を済ませた。海岸に行っても泳ぐ気になれず、ミナミがいつものように本を読んでいるかたわら、紙とペンを取り出し、砂浜に寝転んで落書きを始めた。砂は思った以上に熱かったが、ずっと触れていると慣れてきた。身体の温度と砂の温度が混ざり合い、体温を取り戻していった。それに比べて、ミナミはずっとパラソルの影の下にいたので、すこし肌寒そうに思えた。ミナミは日焼けするのが嫌だからと言って、日に当たることを避けていた。僕はしばらくものを書いて遊んだ。
「何をしてるの?」ふとミナミが僕に訊ねた。
「詩を書いてみてるんだ」と僕は自慢げに言いながら、紙をミナミに渡した。怪訝な顔をしながらミナミはそれを受け取った。
「詩?」
「僕も作ってみようと思ってね。どう?」ミナミは黙って紙を冷めた目で眺めてから、それから静かに呟いた。
「全然良さがわからない」少し凹んだ。
十一時を過ぎてから、急に腹が減ったので、ショッピングセンターに一人で向かった。サンドイッチとコーヒーを買ってからエスカレーターを上がり、昨日と同じ本屋を徘徊した。見覚えのある子供たちの側を横切って、何か面白そうな本はないかと探していたが、五分ほどして、結局のところ何も買わずに本屋を出た。再びエスカレーターに乗って、一階に降りる。エスカレーターが終わる部分に視線を下げると、スーパーボールが見えた。青くて小さいスーパーボールが転がっていた。子供たちの持っていたものだ。エスカレーターの鉛色と黄色に、人工的な青色は段々なじんでいく。
ボールはエスカレーターの流れるままに流され、浅い陸瀬に着くたびに来たほうへ押しやられ、流れに抗ってしばらく行くとまた流され、何度も往来する。黄色のラインの向こう側へ行くことは絶対にない。どれほど接していようと、それは絶対に混ざり合うことはなく、境界線を抗って右往左往している。とても重厚な線だ。僕は一番下にたどり着いた。スーパーボールを拾う。僕の手の中に収まったスーパーボールはもう動かない。境界線もどこかへ消え失せる。僕はそういえばミナミを既に失っていたことを思い出した。
砂浜に戻ると、珍しくミナミは日の当たる場所に出ていた。砂浜はミナミの居場所を与えない。ここにミナミがいてくれたら嬉しいと思う。ミナミは木の枝で砂浜に何やら書いていた。
「何してるの」
「これ、何に見える?」ミナミは砂浜を指差す。一本、縦に線が引いてあった。
「まっすぐな直線」
「そうだね。そうなんだけど、ちょっと違うんだよな」
「じゃあ何なの」
「水平線。こっちが空で、そっちが海」ミナミは線で区切ったこっちとそっちを指し示した。
「そんなのわかりっこないよ。僕から見たら縦線だから、せめて横線にしてくれないと」
「注文が多いね」と言ってミナミは縦線を足で消して、今度はニ人の間にななめの線を引いた。
「ちょっとマシになったかな?こっちが空で、そっちが海、だ。わかりやすい」君は水平線のそっち側にいて、僕はこっち側にいる。わかりやすく僕たちは線引きされている。
「何でこんなことしてんの?」
「たまには動かないと、身体が固まっちゃうね」その気持ちは僕にもちょっとわかった。昨日と今朝も、身体が錆びかけていた。僕はいやになって、海の方へ視線をそらした。
くたびれると海がたった二色で成り立っているように見える。大方が空の面を反射し、所々波の隙間から海の影が下から射し込んでくる。その二つが混ざりあい、水面が出来上がっているのだ。もちろん、全く同じ水面は存在せず、絶えず変わり崩壊をつづけている。
「いつまでここにいるの?」ミナミが質問する。
「わからない。とりあえず、火曜日まではここにいようと思う」
「いいね」ミナミが笑った。僕は自然に笑えない。
「今どこにいるの?」ミナミが僕に訊く。
「誰が?」
「私が」僕は上手く答えられない。
「わからない。最後にあった時が、いつだったのかも思い出せない」
「そう」ミナミはすました返事をする。ミナミは倒木に腰掛ける。僕はその横に腰掛ける。ミナミは全身で日差しを浴びている。僕は日差しを浴びて、海の向こうから吹く風を浴びて、身体がぎこちなく錆びる。
「もしかすると、どこかで誰かと結婚しているのかもしれない。子供ももういるのかもしれない。けど、確かめる手段はない」
「何で?ケータイがある。ネットもある」僕は何も言い返せない。
「いくじなし」ミナミが言う。その一言に尽きる。僕は行き先を失う。風は吹き続ける。波は境い目を往来し続ける。爪と指の境にも似ている。しかし最終的には一つになるのだ。二つが混ざった波は砂浜を濡らし、濡れた面が日差しを反射する。濡れた面と濡れてない面に分かれ、再びここに境が生まれる。僕はずっとこっち側にいる。人は減っていき、いつしか誰もいなくなる。やがて晴れ間が広がり、遠くに光の筋が降りるのを見た。
ホテルに戻ると、ツインベッドに飛び込んで、すぐ眠った。二人で一つのベッド、布団の皺ももちろん一人分だ。
その日の夢の中、僕は下りのエスカレーターにいる。行って帰らないエスカレーターと鉛色の砂浜、それを区切る黄色い境界線。スーパーボールが跳ねながら僕の横を降りて行き、エスカレーターの流れを駆使して境界線を越えようとするが、やはり絶対に越えることはできない。押し返されては流され、流されては押し返され、やがてボールは鉄が錆びるように色がくすんでいく。エスカレーターも錆びていき、僕の身体も色があせていく。境界線だけがはっきりとそこに何も変わらないまま、ありつづける。摩耗されることなく、全ての波を飲み込み、越えようとするあらゆるものを拒絶し、それでもエスカレーターは流れ続ける。
僕はただ、ことの行く末を見届けようとしていた。僕は全身が錆びようとも、エスカレーターの上では、境界線を越えることができない。境界線を越えられないことを覚えないボールを拾い上げたところで、僕は目を覚ます。起きると朝食を食べて身支度をして、身体を確かめ合い、触れ合い、混ざり、そして離れる。全て一人で行う。鍵を閉めて海へ行く。
一人で寝そべって本を読んでいると、枝を持ったミナミがやってきた。
いつの間にか、時刻は午後五時を回っていた。
「元気?」ミナミが僕の顔を覗き込む。
「それほど元気じゃない」僕はつぶやく。ミナミは昨日のように、線を引き始めた。
「これ、何に見える?」まずミナミの引いた線が見え、次にその向こうにある、海と砂浜の混ざっている部分が見えた。一番上にあるのが本物の水平線だ。
「人工物のように見える」
「どういうこと?」
「ぎこちない線だから、自然のものには見えない」僕の視界から線は、斜めに傾いているように見えた。少なくとも水平ではない。不釣り合いに揺らいでいる。
「それと、水平線にも見えない」僕がそう言うとミナミは不満気な顔をして、少し離れて線を見ていたが、納得できないようだった。
「君はいつも酷い物言いをするよ」
「その線、越えようと思ったら、ほんとうに越えることができてしまいそうで怖い」僕は起き上がって、ミナミの持つ枝を取る。一瞬だけ、ミナミの肌に触れる。触感だけ感じる。体温まではわからなかった。枝のざらついた感触は冷たく手に馴染んだ。ミナミの引いた線にできるだけ平行になるように、二本目の線を砂浜に引いた。砂の上に現れた、「//」のようにできた二本の線の上に、僕は途方もない重さを感じる。夢に出てきたそれみたいだった。
僕はこの線を越えられない。とても重厚な線だ。波もなくなり、風も凪いでいる、ここで僕はただ立ち尽くしている。この線の前では、僕を覆うあらゆるものが取り払われ、摩耗した僕が残る。
線の向こうにはミナミがいる。あっちが空で、こっちは海だ。僕はもう二度と、ミナミと同じ側にいることはできない。ミナミはどこにいるのだろう?あっち側の、どこにいるんだろう?実は、それは簡単に確かめることもできるのだ。ミナミの言う通り、携帯電話を使えばいい。だけど僕はそれができない。これは一生続く。どこに行っても行き着く先がない。終点のないこちら側で、僕は苦しみ続ける。それは自然の流れであるように思えた。僕が今、ここで、苦しまなければ、ミナミとの隔たりは損なわれてしまう。とても悲しいことだけれど、それは全部、自分で決めたことなのだと、今になって思い出した。
ミナミは枝を砂浜へ置き去りにして歩き始めた。彼女の鼻歌のするほうへ、僕もついていった。二人が別れる時間と場所に向かって、見送りをするように歩いていった。僕はこの場所から去らなければいけない。ミナミの見送りをしながらも、遠くへ行くのは僕の方なのだ。光は僕たちを水平に指す。波が再生される。僕はただそれに流される。たまにそれにあらがって行ってみる。
木の枝も、彼女が引いた線も、詩集も、本当は存在しない。僕はそれらについて行く。海岸線は夜光に縁取られ、それをたどるようにして歩いた。海岸線を辿っていれば、自ずとまた別の町へとつながっている。またその町もどこかへとつながり、その町の海岸でもまた別の町の光が見えるのだ。だけどミナミの行き先には限りがある。その限りに、まもなく到達しようとしている。
ミナミが立ち止まると、僕も立ち止まる。僕はミナミに翻弄されながら、ミナミの気持ちを確かめようとする。確かめられないまま離れる。
「それじゃあまたいつか」ミナミは手を振る。この別れも、いつしか忘れてしまうのだろう。
別れる時を経ると忘れる時が訪れる。僕はそれを待つ。潮風に吹かれた鉄が錆びるように、大きな流れがその時をもたらしてくれる。僕が何をせずとも、時がやってくる。いつしか僕は境界線にたどり着き、その先へ行くことができなくなる。別れの記憶は僕の元を離れ、境界線を越えてその先へと流れ去ってゆく。僕もそれを越えようと抗うが、敵うわけもなく、記憶だけが遠く離れて行く。それでも僕は抗い続けることで、やがて忘れてゆく。忘れる時が訪れたとき、僕には微かなしるしが残っている。砂浜に描かれた二本の線のような。僕はそれを探し出し、大切にしたいと確かに思う。
別れを終えて、再び僕は歩き始める。水平線は見えなくなっていた。空と海との境がわからなくなり、僕の中にもわからないことが増えていき、それから考えるのをやめてただ歩いていた。
空に星が浮かび始めたころ、ふるびた手漕ぎ船を見つけた。二人乗りの大きさの小さな船だった。僕は力を込めて、船を海に押し出した。膝が濡れるところまで歩いて船を押していき、それから一人で船に乗った。さざなみで揺れる船は少し心もとなかったが、僕は船の中に仰向けに身体を横たえた。
船がどこに向かって流されているのか、僕にはわかるはずもないが、どこへでもよかった。水平線に向かって適当に流されればいいと思った。どうせ越えられやしないのだ。
なんだか棺の中で眠っているみたいだ、と思った。海は棺のように閉ざされている。僕に話しかけてくる人はもう誰もいない。潮風が少し船の中に入ってくる。それが心地良い。この風をずっと浴びていたかった。いつまでも到達することのできない境界線のことを考えながら、僕はどこかから降りるようにして眠りにつく。
まどろみから意識がさめると海があった。
いつのまにかうたた寝をしていたようだった。隣ではミナミが本を読んでいる。
「何の本?」
「詩集」波の音がする。満ち引きのようにまどろみが押しやってくる。
それにあらがうように、もう一度質問をした。
「詩はどうやって楽しむのか、僕にはよくわからない。……それ面白い?」
「面白い。読んでみなよ」ミナミは本から目を離さずに言う。乾ききった二人の身体は潮風にあてて潤す。僕はゆっくりと頭だけを起こして、ミナミの横顔を見つめる。ミナミは黙々と読書をする。僕だけが彼女の声を聴く。パラソルの中。
ゆっくりと体勢を変えて、今度は砂浜の観察を始めた。子供はズボンの裾を持って波際へ接近しては、しぶきを受けて声を上げて逃げる。遠くでは男が腰まで海に浸り、サーフボードを押して頃合いをはかっている。灰色の小さな蟹は、横向きにちょっとずつ砂浜を進んでいた。波に飲まれない、ちょうどいい距離をわかっているようだった。それを眺めながら、まどろみをころがしていると、どこからか青いスーパーボールが飛び跳ねてきた。蟹は驚き加速して小さな穴に潜ってしまった。
やがて二人の男の子がやってきて、スーパーボールを拾う。駆け出して、視界から消えて行く。砂浜のほとぼりがさめたころに、穴から蟹がまた出てくる。子供の声と波音を聞きながら、今度こそ眠りに落ちた。
夜。ベッドでもミナミは本を読んでいた。二人で一つのベッド、シーツの皺も一人分だ。
「死んで生まれ変わってドイツ人と結婚したいな」ミナミは本から目を離さずに言う。いつもそうだった。
「どうして」
「ドイツ人の子供が欲しい。三人がいい。男の子二人、女の子一人」
「ドイツ人の何が良いのさ?や、別に悪いってんじゃないけど」
「何が良いって、部分じゃ語れないね。総体として、こう、なんか良いんだよ」
「わからないな」
僕とミナミは互いの気持ちを知ろうとする。互いの身体を触れ合い、混ざり、そして離れる。それから僕はまどろみに取り憑かれ、ミナミはまた本を読んでいる。まどろみがテーブルクロスを巻き込みながら落ちるように、再び僕は眠りにつく。
砂浜から少し歩くと、中くらいのショッピングセンターがあった。水着の上にパーカーを羽織って店内を物色した。
床は客が歩くたびに砂利で汚れているようだった。一階には食品売り場が陣取っていた。片手で持てるほどの大きさのスイカの前で立ち止まったが、ちょっと考えてから、買うのはよしておいた。エスカレーターに乗って二階に上がると、目の前にあったのは小さな本屋だった。店頭に平積みされている本は知らないものばかりだった。僕は文庫本や雑誌の一冊や二冊、手に取ってぱらぱらと眺めてみたが、興味のないものばかりだった。レジでは店員が変色した新書を集中して読んでいた。店員は彼女だけだった。彼女がこの本屋を切り盛りしているのかはわからなかったが、ずいぶんとこだわりの強そうな本屋だった。薄っぺらい文庫本を、五百円玉一枚を出して買った。
浜辺に戻ると、ミナミただ海を眺めてた。
「泳がないの?」僕は訊く。
「私はいいや。一人で泳いでおいで。荷物は見てるからさ」ミナミは僕の顔に見向きもしなかった。彼女の身体の曲線は綺麗だと、ふと思う。
しかたなく、僕は一人で砂浜をほっつき歩いた。子供達がスーパーボールを投げ合っていた。ボールの人工的な青さは海岸にそぐわない。わだかまりが子供の手から放たれ、宙を飛んで別の手へ、それを反復している。僕は思わず目をそらして、水平線のほうに視線を追いやった。水平線のふもとは日差しを受けてやわらかな色合いをしている。光と影の区別がおぼろげに混ざり、遠くの島の輪郭だけがはっきりと現れている。視線を上げていくと、黒い影が広がっている。やがて雨が来るのだろう。
痙攣するように、左のまぶたが半分閉じて、半分開いて、それを小刻みに何度も繰り返した。潮風をやおら薙いで、僕はなんだか焦りが込み上げ、海に入って泳ぎ始めた。この僕をミナミは見ているのだろうか。
夕食を適当なレストランで済ませて、ホテルの部屋に戻った。昼に買った本を持って、読書に最適な場所を試し試し探った。ソファもベッドも駄目だった。ミナミのお気に入りの場所だから、僕がそんなところでだらだらしていると、いつも文句を言って取られる。バスルームに入ってみると、浴槽に目を止めた。僕は浴槽の底で仰向けになって身体を落ち着かせた。浴槽の蓋を半分ほど広げた状態で乗せた。腹から下が隠れた状態で、僕は本を顔の上に持ちあげて読み始めた。まるで棺の中で死んでいるみたいだ、と思った。
「棺にいる人が死んでるのは当たり前と言えば当たり前だけどね」ミナミが言った。本をずらすと、ミナミが僕を見下ろしていた。
「確かに」死んだ人はたいてい棺桶に入る。棺桶に入っている人は、たいてい死んでいる。何も言い返せなかった。
「なんでこんなところにいるの?」
「こういうところの方が落ち着くんだ。フィット感がある」
「変なの」ミナミは浴槽の縁に腕を乗せ、その上に横顔を預けた。
「その本、ヘッセの詩集だ」
「すすめられたから読んでるんだ」
「面白い?」
「ぜんぜんわかんない。やっぱり楽しみ方がわからない」
「それは残念。すれ違ってばっかりだね。いつも肝心なところで、気が合わない、私たち」
ミナミはすぐに何処かへ行ってしまう。ひらかれた場所にいると、彼女はいつもマイペースだった。だから僕たちはすれ違う。しばらくそのまま本を読んでいると、だんだん眠くなって、本が顔面に落ちてきた。面倒になって本を無視して、そのまま眠った。
次の日は朝から身体の調子が良くなかった。死人のように指先が冷たく、身体の節々が軋む。浴槽で寝なければ良かったと後悔しながらビュッフェで朝食を済ませた。海岸に行っても泳ぐ気になれず、ミナミがいつものように本を読んでいるかたわら、紙とペンを取り出し、砂浜に寝転んで落書きを始めた。砂は思った以上に熱かったが、ずっと触れていると慣れてきた。身体の温度と砂の温度が混ざり合い、体温を取り戻していった。それに比べて、ミナミはずっとパラソルの影の下にいたので、すこし肌寒そうに思えた。ミナミは日焼けするのが嫌だからと言って、日に当たることを避けていた。僕はしばらくものを書いて遊んだ。
「何をしてるの?」ふとミナミが僕に訊ねた。
「詩を書いてみてるんだ」と僕は自慢げに言いながら、紙をミナミに渡した。怪訝な顔をしながらミナミはそれを受け取った。
「詩?」
「僕も作ってみようと思ってね。どう?」ミナミは黙って紙を冷めた目で眺めてから、それから静かに呟いた。
「全然良さがわからない」少し凹んだ。
十一時を過ぎてから、急に腹が減ったので、ショッピングセンターに一人で向かった。サンドイッチとコーヒーを買ってからエスカレーターを上がり、昨日と同じ本屋を徘徊した。見覚えのある子供たちの側を横切って、何か面白そうな本はないかと探していたが、五分ほどして、結局のところ何も買わずに本屋を出た。再びエスカレーターに乗って、一階に降りる。エスカレーターが終わる部分に視線を下げると、スーパーボールが見えた。青くて小さいスーパーボールが転がっていた。子供たちの持っていたものだ。エスカレーターの鉛色と黄色に、人工的な青色は段々なじんでいく。
ボールはエスカレーターの流れるままに流され、浅い陸瀬に着くたびに来たほうへ押しやられ、流れに抗ってしばらく行くとまた流され、何度も往来する。黄色のラインの向こう側へ行くことは絶対にない。どれほど接していようと、それは絶対に混ざり合うことはなく、境界線を抗って右往左往している。とても重厚な線だ。僕は一番下にたどり着いた。スーパーボールを拾う。僕の手の中に収まったスーパーボールはもう動かない。境界線もどこかへ消え失せる。僕はそういえばミナミを既に失っていたことを思い出した。
砂浜に戻ると、珍しくミナミは日の当たる場所に出ていた。砂浜はミナミの居場所を与えない。ここにミナミがいてくれたら嬉しいと思う。ミナミは木の枝で砂浜に何やら書いていた。
「何してるの」
「これ、何に見える?」ミナミは砂浜を指差す。一本、縦に線が引いてあった。
「まっすぐな直線」
「そうだね。そうなんだけど、ちょっと違うんだよな」
「じゃあ何なの」
「水平線。こっちが空で、そっちが海」ミナミは線で区切ったこっちとそっちを指し示した。
「そんなのわかりっこないよ。僕から見たら縦線だから、せめて横線にしてくれないと」
「注文が多いね」と言ってミナミは縦線を足で消して、今度はニ人の間にななめの線を引いた。
「ちょっとマシになったかな?こっちが空で、そっちが海、だ。わかりやすい」君は水平線のそっち側にいて、僕はこっち側にいる。わかりやすく僕たちは線引きされている。
「何でこんなことしてんの?」
「たまには動かないと、身体が固まっちゃうね」その気持ちは僕にもちょっとわかった。昨日と今朝も、身体が錆びかけていた。僕はいやになって、海の方へ視線をそらした。
くたびれると海がたった二色で成り立っているように見える。大方が空の面を反射し、所々波の隙間から海の影が下から射し込んでくる。その二つが混ざりあい、水面が出来上がっているのだ。もちろん、全く同じ水面は存在せず、絶えず変わり崩壊をつづけている。
「いつまでここにいるの?」ミナミが質問する。
「わからない。とりあえず、火曜日まではここにいようと思う」
「いいね」ミナミが笑った。僕は自然に笑えない。
「今どこにいるの?」ミナミが僕に訊く。
「誰が?」
「私が」僕は上手く答えられない。
「わからない。最後にあった時が、いつだったのかも思い出せない」
「そう」ミナミはすました返事をする。ミナミは倒木に腰掛ける。僕はその横に腰掛ける。ミナミは全身で日差しを浴びている。僕は日差しを浴びて、海の向こうから吹く風を浴びて、身体がぎこちなく錆びる。
「もしかすると、どこかで誰かと結婚しているのかもしれない。子供ももういるのかもしれない。けど、確かめる手段はない」
「何で?ケータイがある。ネットもある」僕は何も言い返せない。
「いくじなし」ミナミが言う。その一言に尽きる。僕は行き先を失う。風は吹き続ける。波は境い目を往来し続ける。爪と指の境にも似ている。しかし最終的には一つになるのだ。二つが混ざった波は砂浜を濡らし、濡れた面が日差しを反射する。濡れた面と濡れてない面に分かれ、再びここに境が生まれる。僕はずっとこっち側にいる。人は減っていき、いつしか誰もいなくなる。やがて晴れ間が広がり、遠くに光の筋が降りるのを見た。
ホテルに戻ると、ツインベッドに飛び込んで、すぐ眠った。二人で一つのベッド、布団の皺ももちろん一人分だ。
その日の夢の中、僕は下りのエスカレーターにいる。行って帰らないエスカレーターと鉛色の砂浜、それを区切る黄色い境界線。スーパーボールが跳ねながら僕の横を降りて行き、エスカレーターの流れを駆使して境界線を越えようとするが、やはり絶対に越えることはできない。押し返されては流され、流されては押し返され、やがてボールは鉄が錆びるように色がくすんでいく。エスカレーターも錆びていき、僕の身体も色があせていく。境界線だけがはっきりとそこに何も変わらないまま、ありつづける。摩耗されることなく、全ての波を飲み込み、越えようとするあらゆるものを拒絶し、それでもエスカレーターは流れ続ける。
僕はただ、ことの行く末を見届けようとしていた。僕は全身が錆びようとも、エスカレーターの上では、境界線を越えることができない。境界線を越えられないことを覚えないボールを拾い上げたところで、僕は目を覚ます。起きると朝食を食べて身支度をして、身体を確かめ合い、触れ合い、混ざり、そして離れる。全て一人で行う。鍵を閉めて海へ行く。
一人で寝そべって本を読んでいると、枝を持ったミナミがやってきた。
いつの間にか、時刻は午後五時を回っていた。
「元気?」ミナミが僕の顔を覗き込む。
「それほど元気じゃない」僕はつぶやく。ミナミは昨日のように、線を引き始めた。
「これ、何に見える?」まずミナミの引いた線が見え、次にその向こうにある、海と砂浜の混ざっている部分が見えた。一番上にあるのが本物の水平線だ。
「人工物のように見える」
「どういうこと?」
「ぎこちない線だから、自然のものには見えない」僕の視界から線は、斜めに傾いているように見えた。少なくとも水平ではない。不釣り合いに揺らいでいる。
「それと、水平線にも見えない」僕がそう言うとミナミは不満気な顔をして、少し離れて線を見ていたが、納得できないようだった。
「君はいつも酷い物言いをするよ」
「その線、越えようと思ったら、ほんとうに越えることができてしまいそうで怖い」僕は起き上がって、ミナミの持つ枝を取る。一瞬だけ、ミナミの肌に触れる。触感だけ感じる。体温まではわからなかった。枝のざらついた感触は冷たく手に馴染んだ。ミナミの引いた線にできるだけ平行になるように、二本目の線を砂浜に引いた。砂の上に現れた、「//」のようにできた二本の線の上に、僕は途方もない重さを感じる。夢に出てきたそれみたいだった。
僕はこの線を越えられない。とても重厚な線だ。波もなくなり、風も凪いでいる、ここで僕はただ立ち尽くしている。この線の前では、僕を覆うあらゆるものが取り払われ、摩耗した僕が残る。
線の向こうにはミナミがいる。あっちが空で、こっちは海だ。僕はもう二度と、ミナミと同じ側にいることはできない。ミナミはどこにいるのだろう?あっち側の、どこにいるんだろう?実は、それは簡単に確かめることもできるのだ。ミナミの言う通り、携帯電話を使えばいい。だけど僕はそれができない。これは一生続く。どこに行っても行き着く先がない。終点のないこちら側で、僕は苦しみ続ける。それは自然の流れであるように思えた。僕が今、ここで、苦しまなければ、ミナミとの隔たりは損なわれてしまう。とても悲しいことだけれど、それは全部、自分で決めたことなのだと、今になって思い出した。
ミナミは枝を砂浜へ置き去りにして歩き始めた。彼女の鼻歌のするほうへ、僕もついていった。二人が別れる時間と場所に向かって、見送りをするように歩いていった。僕はこの場所から去らなければいけない。ミナミの見送りをしながらも、遠くへ行くのは僕の方なのだ。光は僕たちを水平に指す。波が再生される。僕はただそれに流される。たまにそれにあらがって行ってみる。
木の枝も、彼女が引いた線も、詩集も、本当は存在しない。僕はそれらについて行く。海岸線は夜光に縁取られ、それをたどるようにして歩いた。海岸線を辿っていれば、自ずとまた別の町へとつながっている。またその町もどこかへとつながり、その町の海岸でもまた別の町の光が見えるのだ。だけどミナミの行き先には限りがある。その限りに、まもなく到達しようとしている。
ミナミが立ち止まると、僕も立ち止まる。僕はミナミに翻弄されながら、ミナミの気持ちを確かめようとする。確かめられないまま離れる。
「それじゃあまたいつか」ミナミは手を振る。この別れも、いつしか忘れてしまうのだろう。
別れる時を経ると忘れる時が訪れる。僕はそれを待つ。潮風に吹かれた鉄が錆びるように、大きな流れがその時をもたらしてくれる。僕が何をせずとも、時がやってくる。いつしか僕は境界線にたどり着き、その先へ行くことができなくなる。別れの記憶は僕の元を離れ、境界線を越えてその先へと流れ去ってゆく。僕もそれを越えようと抗うが、敵うわけもなく、記憶だけが遠く離れて行く。それでも僕は抗い続けることで、やがて忘れてゆく。忘れる時が訪れたとき、僕には微かなしるしが残っている。砂浜に描かれた二本の線のような。僕はそれを探し出し、大切にしたいと確かに思う。
別れを終えて、再び僕は歩き始める。水平線は見えなくなっていた。空と海との境がわからなくなり、僕の中にもわからないことが増えていき、それから考えるのをやめてただ歩いていた。
空に星が浮かび始めたころ、ふるびた手漕ぎ船を見つけた。二人乗りの大きさの小さな船だった。僕は力を込めて、船を海に押し出した。膝が濡れるところまで歩いて船を押していき、それから一人で船に乗った。さざなみで揺れる船は少し心もとなかったが、僕は船の中に仰向けに身体を横たえた。
船がどこに向かって流されているのか、僕にはわかるはずもないが、どこへでもよかった。水平線に向かって適当に流されればいいと思った。どうせ越えられやしないのだ。
なんだか棺の中で眠っているみたいだ、と思った。海は棺のように閉ざされている。僕に話しかけてくる人はもう誰もいない。潮風が少し船の中に入ってくる。それが心地良い。この風をずっと浴びていたかった。いつまでも到達することのできない境界線のことを考えながら、僕はどこかから降りるようにして眠りにつく。